神光院

厄除大師

「西賀茂の弘法さん」として親しまれている1217年創建の真言宗系単立寺院。空海自ら刻んだと伝える本尊の弘法大師像は、「厄除大師」として篤く信仰されている。毎年、諸病封じの「きゅうり封じ」が行われている。

神光院

神光院について

基本情報

山号寺号
放光山神光院(ほうこうざんじんこういん)
別称
西賀茂の弘法さん、上の弘法さん
宗派
真言宗系単立
創建
1217年(建保五年)
開山
慶円(けいえん)
開基
松下能久
本尊
弘法大師
駐車場
無料駐車場あり
交通機関
神光院バス停徒歩3分
住所
京都府京都市北区西賀茂神光院町120

概要

西賀茂にある真言宗系の単立寺院で、「西賀茂の弘法さん」として親しまれている。 寺伝によれば、1217年に上賀茂神社神主 賀茂能久が、「霊光の照らした地に一宇を建立せよ」との神託を受け、大和国から慶円を招き創建したと伝えられている。 この由緒に因み、「神光院」と号されたという。 以後、密教の道場として栄えたが、明治の廃仏毀釈で廃寺となりかけ、明治11年に再興された。 本尊の弘法大師像は、空海自ら刻んだと伝え、「京都三弘法」のひとつであり、「厄除大師」として篤く信仰されている。 また、境内の茶室 蓮月庵は、幕末の女流歌人で陶芸家の太田垣連月が、明治8年に死去するまでの晩年の10年間を隠棲した草庵として知られる。 毎年7月21日と土用の丑の日には、諸病封じのきうり加持が行われる。

見所

国重要文化財
絹本著色仏眼曼荼羅図 - 平安時代作。
悉曇略記(しゃったんりゃっき) - 平安時代作。
細字金光明最勝王経 - 平安時代作。
観光名所
本堂 - 本尊の弘法大師像は、空海自ら刻んだと伝え、「京都三弘法」のひとつであり、「厄除大師」として篤く信仰されている。
蓮月庵 - 幕末の女流歌人で陶芸家の太田垣連月が、幕末から明治8年に死去するまでの晩年の10年間を隠棲した茶室。

行事

毎月21日
京の三弘法巡り
1月10日
蓮月忌
土用の丑の日
きゅうり封じ - 弘法大師が、胡瓜に病魔を封じ込め病魔平癒を祈願したという密教秘法にちなみ、病名を記入した紙をキュウリに包み、身体の悪いところをなでて庭などに埋める。

歴史

609年
この付近に瓦屋寺が建立されたという。
平安時代初期
空海が当地で九十日間の修業し、上賀茂神社の懇望により自像を刻んで安置したとも伝わる。
平安時代
御所に奉納する瓦職人の宿坊となったとも伝わる。
1217年
上賀茂神社神主 賀茂能久が、「霊光の照らした地に一宇を建立せよ」との神託を受け、大和国から慶円を招き創建したと伝えられている。この由緒に因み、「神光院」と号されたという。
中世
能久の子である賀茂氏久が、醍醐寺金剛王院の覚済を院主に請じ、醍醐寺末に属した。
1830~1843年
天保年間、火災で焼失した。
明治維新
廃仏毀釈で廃寺となりかけた。
明治11年
和田月心により再興された。

撮影後記

 観光寺院ではありませんが西賀茂にある素敵なお寺さんです。 山門を入ってすぐ左手には、平屋建ての庵があります。 ここは幕末の歌人太田垣連月が晩年に隠棲した小庵。 連月は鴨川の見える三本松に生まれ、この小庵で85歳の生涯を閉じるまで、すべての肉親を失うという悲運に見舞われました。 その薄辛な境涯のなかで、陶芸で生計をたて、歌を詠み、自分の生きる道を見つけたといわれます。 明治8年、この庵で生涯を閉じ、別れを惜しんだ西賀茂村の住人が総出で弔いをしたといいます。

更新履歴

2012年8月9日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年1月1日
一部の無料壁紙を会員限定の閲覧に制限しました。
2014年3月23日
登録カテゴリを洛北から移動しました。

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