万寿寺

京都五山第五位

臨済宗大本山東福寺の塔頭。旧地の下京区万寿寺町付近に寺基があった頃は興隆して、京都五山第5位に列格されている。1097年創建の白河上皇の六条御堂が前身で、豊臣秀吉の都市改造で東福寺北側の現在地に移転した。

万寿寺

万寿寺について

基本情報

寺号
万寿寺(まんじゅじ)
別称
万寿禅寺
宗派
臨済宗東福寺派
寺格
東福寺塔頭、京都五山五位
創建
1097年(永長二年)
開山
東山湛照
開基
白河上皇
本尊
阿弥陀如来
駐車場
専用駐車場なし
交通機関
JR東福寺駅・京阪東福寺駅すぐ
住所
京都府京都市東山区本町十五丁目786

概要

臨済宗東福寺派大本山東福寺の塔頭である。 昭和10年に京都市電と九条通の拡張により境内が分断されたため、九条通を挟んで東福寺の飛地のような位置に寺基がある。 永長2年(1097年)白河上皇が息女の菩提を弔うために万寿寺通高倉に六条御堂を建てたのが起源。 正嘉年間(1257年~1259年)東山湛照が東福寺の円爾に帰依して臨済宗寺院となり、六条御堂を「萬寿禅寺」と改めた。 焼失後、旧地の下京区万寿寺町付近に移転した。 寺は興隆して天下十刹の第四位に列格し、室町時代には京都五山の第五位に昇格している。 天正年間(1573年~1592年)豊臣秀吉の都市改造で、東福寺北側の現在地に移転した。

見所

国重要文化財
東福寺鐘楼(総門) - 室町時代の建築。万寿寺の総門(表門)として使われている。元は三聖寺の建物で、現在は東福寺の所有となっている。
東福寺二王門 - 慶長二年(1597年)の建立。九条通の拡張で境内南側が上知され、取り残される形となっている。現在は東福寺の所有となっている。
三聖寺愛染堂 - 室町時代前期の建立。愛染明王を祀る八角円堂で、かつて三聖寺にあったものが台風で倒壊し、昭和12年に東福寺山内に移された。
絹本著色八相涅槃図 - 鎌倉時代の作。
木造阿弥陀如来坐像 - 平安時代後期の作。本尊で三聖寺の旧仏。
木造金剛二力士立像 - 鎌倉時代の運慶作。三聖寺の旧像。
絹本著色聖一国師像 - 弘安三年(1280年)の自賛。歿する5か月前、病中に門弟本智房正堂俊顕のために著賛し付与したもの。(京都国立博物館寄託)
絹本墨画淡彩釈迦三尊図 - 南北朝時代の作。万寿寺の鉄舟徳済弟子の愚渓筆。(京都国立博物館寄託)
府登録文化財
客殿(方丈)- 江戸中期の建築。

歴史

1096年
白河上皇息女郁芳門院が21歳で亡くなった。
1097年
白河上皇は菩提を弔うために万寿寺通高倉に六条御堂を建てた。
1257~1259年
正嘉年間、十地覚空弟子の東山湛照が東福寺の円爾に帰依して浄土教より臨済宗寺院となり、六条御堂を「萬寿禅寺」と改めた。
1273年
焼失した。
1330年
下京区万寿寺町付近に移転した。
鎌倉時代末期
十刹の第四位に列格した。
1386年
京都五山の第5位に昇格した。
1434年
大火により焼失した。
1573~1592年
天正年間、豊臣秀吉の都市改造で、現在地の東福寺山内の三聖寺の隣地に移転した。
明治6年
三聖寺を吸収し「万寿寺」と改称した。
明治19年
東福寺の塔頭となった。
昭和10年
京都市電と九条通の拡張により境内が分断された。

撮影後記

 現在は寺と仁王門の間に九条通が横断して住宅も建ち並んでいますが、かつては万寿寺の境内でした。 江戸時代の「再撰花洛名勝図絵」には、仁王門、二天門(失われている)、法堂(失われている)、方丈が一直線上に描かれていて、他の京都五山(天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺)のような禅宗伽藍でした。 万寿寺北東には三聖寺も描かれています。 また、現在東福寺の本堂に安置される本尊釈迦三尊像は、もと三聖寺に安置されていたもので、明治14年に東福寺の仏殿が焼失した際に遷されました。

更新履歴

2015年10月9日
初版をアップロードしました。
2015年10月9日
登録カテゴリを山科・醍醐・今熊野から移動しました。

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