清凉寺

嵯峨釈迦堂

「嵯峨釈迦堂」で親しまれている浄土宗知恩院派の古刹。この地は、源融の山荘があったところで、境内に墓が残る。国宝阿弥陀三尊像等、多数の文化財が祀られ、嵯峨大念仏狂言は重要無形民俗文化財に指定されている。

清凉寺

清凉寺について

基本情報

山号寺号
五台山清凉寺(ごだいさんせいりょうじ)
別称
釈迦堂、嵯峨釈迦堂、嵯峨の釈迦堂
宗派
浄土宗知恩院派 - 初め華厳宗。
創建
987年(寛和三年)
開山
盛算(じょうさん)- 奝然の弟子。
開基
奝然(ちょうねん)
本尊
釈迦如来 - 国宝
札所
京都十三仏霊場2番
駐車場
有料駐車場あり
交通機関
嵯峨釈迦堂前バス停徒歩2分 京福電車嵐山駅徒歩15分
住所
京都府京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46
サイト
嵯峨大念仏狂言保存会 竹仙 大文字屋

概要

「嵯峨釈迦堂」で親しまれている浄土宗知恩院派の古刹。 中世以来「融通念仏の道場」としても知られている。 嵯峨野のこの地は、嵯峨天皇の皇子で、「源氏物語」の主人公である光源氏の実在モデルの一人といわれる源融(みなもとのとおる)の山荘「棲霞観(せいかかん)」があった。 源融の一周忌に、生前に造立発願して果たせなかった阿弥陀三尊像を造り、これを安置した阿弥陀堂を「棲霞寺」と号したのが起源である。 その後、重明親王妃が新堂を建て、等身大の釈迦像を安置し、これが「釈迦堂」の起こりであるという。 その後、インド、中国、日本の三国伝来となる釈迦如来立像を持って宋から帰国した奝然が、その像を安置するため、愛宕山を中国の五台山に見立てた「大清涼寺」の建立を計画したが、志半ばで没したため、弟子の盛算が清涼寺を建立して像を安置した。 昭和28年、釈迦如来の背中に蓋が発見され、中に内臓を模した絹製の五臓六腑などが発見され国宝に指定された。 霊宝館には、国宝阿弥陀三尊像等、多数の文化財が祀られている。 このほか、境内には、奝然上人、源融、嵯峨天皇、壇林皇后の墓などがある。

見所

国宝
木造釈迦如来立像および像内納入品 - 本尊で、奝然が宗から持ち帰った立像。胎内には、造像に係わる納入品が納められ「生身如来」といわれ、内臓を模した絹製の「五臓六腑」は、医学史資料として貴重。
木造阿弥陀三尊坐像 - 源融が、自分の顔に似せて作らせたといわれ、「光源氏写し顔」といわれる。
絹本著色十六羅漢像 - 北宋時代の羅漢像として国内唯一の遺品。(京都国立博物館、東京国立博物館に寄託)
国重要文化財
紙本著色釈迦堂縁起 - 狩野元信の筆といわれる。(京都国立博物館寄託)
紙本著色融通念仏縁起
木造文殊菩薩騎獅像
木造帝釈天(伝普賢菩薩)騎象像
木造地蔵菩薩立像
木造毘沙門天立像 - 左脚を踏み下げて座す珍しい毘沙門天。
木造毘沙門天坐像
木造四天王立像
木造十大弟子立像
源空、証空自筆消息
府文化財
釈迦堂(本堂) - 徳川綱吉と桂昌院らの発起により再建。
観光名所
阿弥陀堂 - もと棲霞寺の本堂で唯一の遺構だが、江戸時代の再建。
仁王門 - 江戸時代の建立。
狂言堂 - ここで嵯峨大念仏狂言が演じられる。
清凉寺庭園 - 本堂の奥。紅葉の名所。
源融の墓 - 多宝塔右奥の宝篋印塔。

行事

春季秋季が有名
嵯峨大念仏狂言 - 狂言面をつけて演じる無言劇で重要無形民俗文化財に指定されている。
3月15日
涅槃会大法要
同日
嵯峨お松明 - 釈迦の荼毘を表現したもので、「京都三大火祭(大文字送り火・鞍馬の火祭)」のひとつ。
4月19日
御身拭式
11月第2日曜
夕霧供養 - 近松門左衛門の「夕霧七年忌」のモデルになった名妓・夕霧太夫の法要。

歴史

895年
源融が死去。
896年
源融一周忌に、生前に造立発願した阿弥陀三尊坐像が造られ、それを本尊とする阿弥陀堂が創建され「棲霞寺」と号した。
945年
重明親王妃が新堂「堂宇」を建立し、等身大の釈迦像が安置され、「嵯峨釈迦堂」と称された。
987年
宋の五台山清凉寺で修行していた東大寺の奝然が帰国。京都の愛宕山を五台山に見立て、宗から持ち帰った釈迦像を安置する寺院として「大清凉寺」を建立しようと計画。
1016年
奝然は、志半ばで死去。弟子の盛算が、師の遺志を継ぎ、棲霞寺の境内に清凉寺を建立し像を安置した。
1279年
円覚が、清凉寺で融通念仏の修行を行った。その後、融通念仏の大道場となった。
1443年
嵯峨大念仏狂言が初めて催された。
応仁の乱
兵火で伽藍が焼失。
1481年
伽藍が復興された
1530年
円誉が入り、初めて十二時の念仏を勤修し、浄土宗寺院となった。
1602年
豊臣秀頼によって本堂の釈迦堂が寄進、造営された。
江戸時代初期
嵯峨の大火が類焼し、本堂以下の伽藍が焼失し、また、大地震により伽藍が大破した。
1700年
本尊の江戸及び各地への出開帳が始まった。
1701年
徳川綱吉とその母 桂昌院の発願で、本堂が再建された。

撮影後記

 嵯峨野にある、仁王門や本堂などの大堂が建っている大寺院で、たまに駐車場を利用させてもらいます。 境内は広く、落ち着いて撮影できるので、嵐山嵯峨野方面ではお気に入りの寺院のひとつであります。 なお、細かいことですが、「清凉寺」で「清涼寺」ではありません。
 歴史の流れを大雑把に体系すると、阿弥陀三尊を本尊とする棲霞寺と、釈迦如来を本尊とする清凉寺という2つの寺院が関係しています。 南都出身の奝然は、平安京の西北にそびえる愛宕山麓の地に中心となる清凉寺を建立することで、都の東北に位置する比叡山に対抗しようとしたそうです。

 

更新履歴

2011年9月24日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年1月1日
一部の無料壁紙を会員限定の閲覧に制限しました。

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