六道珍皇寺

六道まいり

六道の辻に建つ臨済宗建仁寺派の古刹。京の盆の始まり「六道詣り」では、祖先の霊を迎えるために迎え鐘を撞き、大勢の参詣者で賑わう。「今昔物語」で登場する小野篁の冥土通い伝説の井戸が、本堂裏にある。

六道珍皇寺

六道珍皇寺について

基本情報

山号寺号
大椿山六道珍皇寺(たいちんざんろくどうちんのうじ)
別称
六道さん、愛宕寺
宗派
臨済宗建仁寺派
創建
不詳
開山
不詳
本尊
薬師如来
駐車場
無料駐車場あり
交通機関
清水道バス停徒歩5分
住所
京都府京都市東山区大和大路通四条下ル4丁目小松町595

概要

「六道さん」で親しまれている臨済宗建仁寺派の古刹。 この地は古くより鳥辺野の葬送地入り口であり、現世と冥界の接点にあたると考えられ、「六道の辻」と呼ばれた。 創建は諸説あり、鳥部氏の氏寺だった宝皇寺が由来とする説、空海の師 慶俊(けいしゅん)が宝皇寺(愛宕寺)を創建した説、小野篁(おののたかむら)が創建した説。この地の豪族であった山代淡海(やましろのおうみ)により創建されたとする説などがある。 「今昔物語」にもでてくる当寺の梵鐘の迎え鐘によって、あの世から亡者を蘇らせることができると信じられてきた。 京の盆の始まり「六道詣り」では、祖先の霊を迎えるために迎え鐘を撞き、大勢の参詣者で賑わう。 本堂裏の井戸は、小野篁がこの井戸を通じて冥界へ通い、閻魔王宮で裁判を手伝ったといわれる伝説があり、閻魔堂には、閻魔大王像とともに小野篁像が合祀されている。

見所

国重要文化財
木造薬師如来坐像
府文化財
珍皇寺参詣曼荼羅 - 桃山時代の作。
観光名所
本堂 - 本尊薬師如来像、脇侍に日光月光菩薩像の薬師三尊が安置されている。(拝観は事前申込)
冥土通いの井戸 - 小野篁がこの井戸を通じて冥界へ通い、閻魔王宮で裁判を手伝ったといわれる。
閻魔堂 - 小野篁作といわれる閻魔大王像と、等身大の小野篁像などが安置。
薬師堂 - 藤原時代作の旧本尊薬師如来像(重文)を安置している収蔵庫。(六道まいり時に開帳)
迎え鐘 - 10万億土のあの世から亡者を蘇らせることができるといわれる鐘。六道まいりのときにだけ綱を引いて撞くことができる。
三界萬霊供養塔 - 本堂の前に立っている石塔婆。野辺送りに先立ちここで引導を渡した、あの世との分岐点といわれる。

行事

8月7日~10日
六道詣り(盂蘭盆会) - お盆に祖先の霊を迎えるために詣る精霊迎え行事で、京の盆の始まりとして参詣者で賑わう。参道で高野槇を買い、水塔婆に戒名を書いてもらい、清めて、迎え鐘を撞く。

歴史

奈良時代
この地は古くより葬送地であり、鳥辺野墓地の無常所があった。阿弥陀ヶ峰山麓一帯に住んでいた鳥部氏の氏寺だった宝皇寺が由来ともいわれる。
782年~806年
延暦年間、空海の師 慶俊が六道の辻に宝皇寺(愛宕寺)を創建したのが起源とも伝わる。
平安時代初期
小野篁が創建したともいう。
836年
この地の豪族であった山代淡海により創建されたともいう。
~鎌倉時代
東寺末寺として隆盛したが、その後度重なる火災で衰退した。
1364年
建仁寺の聞渓良聰(もんけいりょうそう)が中興し、臨済宗に改宗した。
近代
建仁寺に併合された。
明治43年
独立した。

撮影後記

 「今昔物語集」で小野篁は、亡き母に会うために冥土通いを始めたといわれます。 本堂裏庭にある冥土通いの井戸には、現在その傍に高野槙が生えています。 篁は高野槙を伝って井戸へ入り、冥界の閻魔王宮に通いました。 そして、西の葬送地にあたる化野にある嵯峨野六道町にあったという福生寺(現在の嵯峨薬師寺)の井戸から現世に戻ってきます。 珍皇寺の井戸を「死の六道」、福生寺の井戸を「生の六道」と称したそうです。
 ちなみに、北の葬送地にあたる蓮台野にある千本ゑんま堂(引接寺)にも六道まいり迎え鐘の精霊迎え行事があり、千本六斎念仏が行われます。

更新履歴

2013年8月7日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。

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