酬恩庵

一休寺

京田辺市にある臨済宗大徳寺派の寺院で、「一休さん」で親しまれる一休宗純が中興し、晩年の四半世紀を過ごしたことから、「一休寺」と通称する。現在の伽藍は、加賀前田家の寄進により整備されたもので重文。

一休寺

一休寺について

基本情報

山号寺号
霊瑞山酬恩庵(れいずいさんしゅうおんあん)
別称
一休寺、薪の一休寺
宗派
臨済宗大徳寺派
創建
1288年~1293年(正応年間)
開山
南浦紹明(なんぽじょうみょう)
中興開山
一休宗純(いっきゅうそうじゅん)
本尊
釈迦如来
駐車場
有料駐車場あり
交通機関
一休寺道バス停すぐ
住所
京都府京田辺市薪里ノ内102
サイト
酬恩庵一休寺

概要

京田辺市にある臨済宗大徳寺派の寺院で、一休宗純が中興し、88才で亡くなるまでの四半世紀を過ごしたことから、「一休寺」として広く知られている。 鎌倉時代の正応年間(1288年~1293年)、大応国師 南浦紹明が、妙勝禅寺を創建したことにはじまる。 その後、兵火で荒廃し、1456年に一休禅師が復興し、大応国師の法恩に酬いることから「酬恩庵」と号した。 現在の伽藍は、江戸時代初期に加賀前田家の寄進により整備されたもの。 本堂は、室町時代永享年間に建立され、山城・大和地方の唐様建築では最も古い。 方丈仏間に安置されている一休和尚坐像は、一休自身の頭髪を抜いて植え付けた大変珍しい坐像で、宝物殿の一休和尚像は、ざんばら髪で無精ひげをのばし、右足を曲げて左足のもも上に組んで座る頂相。 以上いずれも国の重要文化財である。 また、方丈の三面庭園は、江戸時代作庭の枯山水庭園で国の名勝に指定されている。 境内には、宮内庁の管理で後小松天皇皇子であった一休禅師の墓がある。

見所

国重要文化財
本堂 - 1429年~1441年(永享年間)、足利義教の帰依により建立。 山城・大和地方の唐様建築では最も古い。 本尊の釈迦如来坐像と文殊・普賢菩薩像が安置されている。
方丈および玄関 - 加賀の前田利常の寄進により1650年に再建された。襖絵は狩野探幽によるもの。
庫裏 - 1650年、加賀前田家が建立。入口に樹齢400年の「しだれ松」がある。
東司 - 1650年、加賀前田家が建立。全国でも数少ない重文の御手洗い。
浴室 - 1650年、加賀前田家が修築。
鐘楼 - 梵鐘に1623年の鐘銘がある。
木造一休和尚坐像 - 方丈仏間に安置。一休が亡くなる前年に弟子の墨済に造らせた。一休自身の頭髪を抜いて植え付けた大変珍しい坐像。
絹本著色一休和尚像 - ざんばら髪で無精ひげをのばし、右足を曲げて左足のもも上に組んで座る頂相。
後花園天皇宸翰女房奉書(管宰相宛)
国名勝
酬恩庵庭園 - 方丈庭園と虎丘庭園からなる。方丈庭園は江戸時代の枯山水庭園で、北庭は石組で枯れ滝を表現した蓬莱庭園で、東庭は庭石と刈り込みで十六羅漢の遊行するさまを表わし、南庭はサツキの刈り込みに白砂が敷き詰められ大海を表している。虎丘庭園は室町時代の枯山水庭園で、村田珠光の作庭と伝えられる。
府文化財
虎丘庵 - 晩年の一休が、盲目の森女と暮らした小庵。もとは京都東山にあったが、応仁の乱後に移築されたといわれる。
総門 - 江戸前期。総門前には、金春禅竹が一休のために能を演じた石碑が立つ。
中門 - 江戸前期。庫裏、方丈へと続く門。
木造大応国師坐像 - 開山堂に安置。裳裏に「一休和尚小師 宗本造之康正丙子孟夏日」の刻銘がある。
一休宗純関係資料
観光名所
開山堂 - 大正時代の再建。妙勝寺の旧跡にあたるところで、開山の大応国師木像を安置している。
三本杉 - 一休、蜷川新右衛門、蓮如が一本ずつ植えたといわれる。第二室戸台風で倒木し、昭和40年に植えられた二代目。
宝物殿 - 重文の一休和尚像などを展示。
少年一休像 - 頭を撫でると知恵がつくといわれる。
宮内庁管理
宗純王墓 - 後小松天皇皇子であった一休禅師の墓。

行事

1月最終日曜
一休善哉(ぜんざい)の日 - 1月1日生まれの一休にちなむ。ぜんざいの語源は、一休が、あまりの美味しさに「善哉(よきかな)」と亭主に答えたからとも。
3月15日
涅槃会 - お釈迦様の命日。
5月大型連休
灌仏会(花祭り) - お釈迦様の誕生日を祝う。
8月15日~16日
曝涼(観音三十三身図展示) - 原在中が画いた「観音三十三身」の掛軸を掲げ、虫干しを行う。
9月中秋前後
一休寺薪能 - 金春禅竹が一休のために能を演じたのが起源。
11月21日
開山忌 - 一休の命日の法要。
12月31日
除夜の鐘

歴史

1288~1293年
正応年間、大応国師 南浦紹明が、妙勝禅寺を創建した。
1429~1441年
永享年間、足利義教の帰依により本堂が建立。
1456年
一休宗純が、荒廃していた妙勝禅寺を復興し、大応国師の法恩に酬いることから「酬恩庵」と号した。
1474年
後土御門天皇の勅命により応仁の乱で荒廃した大徳寺の住持に任ぜられ、再興に尽力した。
1475年
一休宗純が、かつての住まいだった東山の虎丘庵を移築した。
1481年
一休宗純が亡くなった。
戦国時代
その後、一休宗純の廟所となった。
1650年
前田利常の寄進により現在の伽藍が整備された。

撮影後記

 いっきゅうさんでお馴染みのお寺です。 境内には、「このはしわたるな」橋や、虎が描かれた屏風が何気にあり、思わずほくそ笑んでしまいました。 夜には、城陽の上方温泉一休に立ち寄り、この日は一休三昧になりました。
 境内の宝物殿には、一休さんの頂相が展示されています。 禅師でありながら、ざんばら髪で無精ひげをのばし、右足を曲げて左足のもも上に組んで座る。 実際の一休さんは、アニメのかわいらしい聖人君子のような設定とは異なり、一筋縄ではいかないような人だったようです。 また、方丈に安置されている一休和尚坐像は、一休さん自身の頭髪を抜いて植え付けたという像で、奇抜な発想で驚かされます。 自由奔放で奇行が多かった人といわれます。 そういった「ちょいワルおやじ」だったからこそ、江戸時代に本になり人気をはくし、今なお人気があるのでしょうね。
 先日、BSの京都1200年の旅という番組で一休さんの特集を放送していました。 一休さんの遺偈(辞世の句の書)が当寺と大徳寺の真珠庵に残っています。 一休寺の方は、版が押され整然と文字が並び、真珠庵のものは、一文字が後から付け足されたように書かれていました。 普通ならば、真珠庵のものは下書きであるところなのですが、一休さんの為人から、どちらが清書なのかというお話で、興味深いと思いました。

更新履歴

2012年7月26日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年1月1日
一部の無料壁紙を会員限定の閲覧に制限しました。

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