修学院離宮

後水尾上皇

比叡山山麓にある54万平方メートルに及ぶ江戸時代初期の代表的山荘で、宮内庁皇室用財産となっている。後水尾天皇は、幕府の朝廷圧迫政策を不満として突然に譲位し、洛北に隠居の地を求め、自ら作庭したと伝わる。

修学院離宮

修学院離宮について

基本情報

名称
修学院離宮(しゅうがくいんりきゅう)
創建
1653年~1655年(承応二年~承応四年)
指定
国有財産 - 宮内庁皇室用財産。
駐車場
専用駐車場なし
交通機関
修学院離宮道バス停徒歩15分
住所
京都府京都市左京区修学院薮添
サイト
宮内庁修学院離宮

概要

比叡山山麓にある山荘庭園で、桂離宮・仙洞御所とならぶ江戸時代初期の代表的山荘である。 敷地面積54万平方メートルに及ぶ広大なもので、上離宮、中離宮、下離宮の三庭園からなり、その間を松並木道が結び田畑が広がっている。 そして谷川を堰き止めた壮大な堰止池の池泉に、数寄屋造の建物が散在している。 後水尾天皇は、「禁中並公家諸法度」「紫衣事件」など江戸幕府の朝廷圧迫政策を不満として突然に明正天皇に譲位し、洛北に隠居の地を求め、学問や芸術に傾倒した。 後水尾上皇が自ら作庭したと伝わるのが修学院離宮である。

見所

国有財産
下離宮(下御茶屋) - 池泉観賞式庭園で、御幸門と寿月観が建っている。かつては茶屋「蔵六庵」と楼閣「彎曲閣」があった。
下離宮 寿月観 - 後水尾院行幸時の御座所。御興寄があり、一の間、二の間、三の間を鍵の手に配した簡素な書院。顕子内親王の岩倉殿から移築したものが失われ、徳川家斉が光格上皇のために離宮の改修を行った1824年に再建された。
中離宮(中御茶屋) - 明治19年、隣接している林丘寺の一部を離宮に編入したもの。臨済宗系単立の尼門跡寺院である林丘寺は、1668年、後水尾上皇第8皇女 光子内親王のために造営された朱宮御所が前身。
中離宮 楽只軒 - 朱宮御所の遺構。軒名は後水尾院の命名で、長押上の額「楽只軒」は後水尾院の筆。
中離宮 客殿 - 朱宮御所の遺構。東福門院の女院御所の奥対面所を1682年に移築したもの。一の間の5枚の違い棚は「霞棚」と称され、「天下の三大名棚(醍醐寺三宝院の「醍醐棚」、桂離宮の「桂棚」)」のひとつ。
上離宮(上御茶屋) - 大堰堤で音羽川を引いて堰止た堰止池の浴龍池を中心とした壮大な池泉回遊式庭園。中央に中島、北側に三保島、南側に万松塢が浮かび、楓橋、土橋、千歳橋が架かる。
上離宮 隣雲亭 - 離宮最高所に建ち、眼下に浴龍池、借景の山々と京都市街を望む絶景が開ける。1824年の再建で、展望を目的とした簡素な建築。
上離宮 窮邃亭 - 中島に建つ創建時の唯一のもの。18畳1室で、間仕切りはない。
上離宮 千歳橋 - 中島と万松塢に架かる屋形橋。1824年に京都所司代の内藤信敦が橋台を、1827年に水野忠邦が屋形を寄進した。

歴史

1627年
後水尾天皇は、「禁中並公家諸法度」「紫衣事件」など幕府の朝廷圧迫政策を不満として突然に明正天皇に譲位し、洛北に隠居の地を求めた。
1653~1659年
後水尾上皇の指示で、江戸幕府が造営した。
1716~1736年
享保年間、霊元法皇により再興された。
1824年
徳川家斉の援助で、大規模な修復工事が行われた。
明治17年
上御茶屋、下御茶屋は、宮内省の所管となった。
明治19年
林丘寺の客殿などが宮内省に返還され、中御茶屋となった。
戦後
「皇室用財産」と位置づけられて、宮内庁京都事務所が管理している。
昭和49年
一般参観が開始された。

撮影後記

 京都御所を拝観した際に、案内してくださった宮内庁の職員の方から修学院離宮の参観を勧められ、空きが一人分できたということで、急遽拝観してみることに。 紅葉のピークは過ぎていたことは想定内だったので、写真は殆ど撮らずに、久しぶりに肉眼で楽しむことにしました。 機会があれば、紅葉のピーク時にも参観してみたいものです。

更新履歴

2015年1月14日
初版をアップロードしました。
2015年10月6日
ギャラリーに作品を1点追加しました。

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