山国護国神社

山国隊の英霊

時代祭における維新勤王隊列の鼓笛隊として知られる「山国隊」隊士を祀る神社。明治二年、故郷山国庄に凱旋を果たし、戦病死した山国隊士の招魂場を設けたのが起源である。終戦に至るまで官祭社として購われた。

山国護国神社

山国護国神社について

基本情報

社名
山国護国神社(やまくにごこくじんじゃ)
別称
山國護國神社 - 旧字体。
創建
明治二年
主祭神
山国隊隊士の英霊
旧社格
官祭招魂社
例祭
4月22日
駐車場
無料駐車場あり
交通機関
山国護国神社前バス停下車徒歩3分
住所
京都府京都市右京区京北辻町清水谷10

概要

時代祭における維新勤王隊列の鼓笛隊として知られる「山国隊」隊士たちを祀る神社。 王政復古の政変に際し、勤皇隊の山陰道方面総司令官 西園寺公望の募兵に呼応して、山国庄の名主等が農民兵を組織して、勤皇隊に参じ、鳥羽、伏見の戦はもとより遠く江戸、奥羽まで転戦した。 明治二年、大勢の出迎えのなか、鼓笛を奏して故郷山国庄山国神社に凱旋を果たし、戦病死した山国隊士の慰霊祭を行ない、辻村に招魂場を設けたのが起源である。 以来、山国招魂社は官祭社として終戦に至るまで官費を以て購われた。 戦後、山国護国神社となり、日清、日露、第二次大戦の山国の戦病死者も合祀し今に至る。

見所

観光名所
山国隊の墓標 - 七隊士招魂碑(仲西一太郎、高室重蔵、田中浅太郎、高室治兵衛、田中伍右衛門、北小路萬之助、新井兼吉)や山国隊の石塔。
顕彰碑と歌碑 - 明治の京都府知事 槇村正直、徳川慶喜の兄で官軍に加わった因幡鳥取藩主 池田慶徳、山国隊司令長を経て外遊し実業家になった原六郎、因幡鳥取藩出身で同隊隊長を務めた河田左久馬の碑。

祭事

4月22日
招魂祭 - 明治8年から続く例祭。
10月第2日曜
山国さきがけフェスタ - 山国神社の還幸祭。山国隊軍楽保存会が鼓笛を奏楽し、若者が担ぐ御輿が続く5時間にも及ぶ行進。神輿の御旅所となる。
10月22日
時代祭 - 時代祭時代風俗行列における維新勤王隊列の鼓笛隊のモデル。

歴史

明治2年
2月21日、山国隊が山国庄に凱旋し、伍長会を開いて、辻村薬師山に戦病死をした隊士の招魂場を設けることを議した。
同年
2月24日、全隊員が五社明神に参拝して報告祭を催し、 薬師山に戦病死した七隊士の墓標を立て招魂祭を催した。
明治8年
招魂祭を京都府監督官の臨席のもとに催し、現在まで執行されている。
明治15年
京都府は「自今招魂社祭祀及修繕等の諸経費は皆官費を以て被支給候事」の通達を出し、 終戦に至るまで招魂社の諸経費は官費を以て購われた。
明治16年
社殿を新築し、 石棚を造り招魂場としての体裁を整えた。
昭和20年
官祭社から宗教法人山国郷社となった。
昭和26年
山国護国神社となった。
昭和42年
日清、日露、第二次大戦の山国の戦病死者を合祀。

撮影後記

 以前アップした山国神社とも関係がある神社で、バス通りに対して反対側にあります。 護国神社ですので、国家のために殉難した英霊を祀るための神社で、参道入口には「官祭山国隊招魂社」の石碑が立っています。
 山国は、平安京創建時から皇室との関係や禁裏御料回復の願いから、必然的に農兵隊が結成されました。 農兵隊といえども、西洋式の軍事教練を受け、射撃精度は猟で慣らしていたため非常に優れていたそうです。

更新履歴

2011年11月13日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。

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