聚光院

茶道三千家の菩提寺

臨済宗大徳寺の塔頭で、1566年に三好義嗣が、父長慶の菩提を弔うため創建された。千利休の墓をはじめ、茶道三千家歴代の墓所となっている。茶聖 利休と天才絵師 狩野永徳の美の競演で作庭された方丈庭園は国の名勝。

聚光院

聚光院について

基本情報

寺号
聚光院(じゅこういん)
宗派
臨済宗大徳寺派
寺格
大徳寺塔頭
創建
1566年(永禄九年)
開山
笑嶺宗訴(しょうれいそうきん) - 大徳寺107世。
開基
三好義継 - 三好長慶の養子。
駐車場
有料駐車場あり - 大徳寺駐車場利用。
交通機関
大徳寺前バス停徒歩7分
住所
京都府京都市北区紫野大徳寺町58

概要

臨済宗大本山大徳寺の塔頭のひとつである。 1566年(永禄9年)、戦国武将 三好義嗣が、養父である三好長慶の菩提をとむらうため、大徳寺107世 笑嶺宗訴を請じて創建された。 長慶の法名「聚光院殿」に由来する。 千利休が笑嶺和尚に参禅したことから、利休の墓をはじめ、茶道三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)歴代の墓所となっている。 桃山時代の方丈は、狩野永徳父子による国宝障壁画(デジタル複製)で飾られている。 方丈南の苔地の枯山水庭園は、狩野永徳の下絵をもとに千利休が作庭したといわれ、国の名勝庭園となっている。 方丈につづく茶席閑隠席(かんいんせき)は、利休好みの三畳台目の茶席で、利休ゆかりの伝説もあり有名である。

見所

国宝
方丈障壁画 38面 附8面 - 狩野永徳と父 狩野松栄の筆。花鳥図、琴棋書画図、瀟湘八景図、竹虎遊猿図、蓮鷺藻魚図。(京都国立博物館寄託)
国名勝
聚光院庭園 - 苔地の枯山水の方丈南庭は、狩野永徳の下絵をもとに、千利休が作庭したといわれる。直線上に数多くの庭石が置かれ、「百積の庭」と称される。利休手植えという沙羅の木(ナツツバキ3代目)がある。
国重要文化財
本堂(方丈) - 桃山時代の方丈建築を代表する1583年の建築。狩野永徳父子による国宝障壁画(デジタル複製)で飾られている。
茶室(閑隠席) - 表千家7代 如心斎が、千利休150回忌の1741年に寄進したもの。千利休好みの三畳中柱で、点前座を一段低くみせ、客座を上段の間のように見せる構造。
茶室(桝床席) - 江戸時代後期に造営された。表千家6代 覚々斎好みで、枡形(正方形)の踏込床がある四畳半の茶席。
絹本著色三好長慶像 - 1566年の作。
観光名所
庫裏 - 総見院より明治時代に移築した。
墓地 - 茶道三千家(表千家、裏千家、武者小路千家)の歴代墓地が並ぶ中央に千利休の宝塔が立つ。元は船岡山にあった供養塔を利休が生前に気に入り墓標としたといわれる。三好長慶の墓。

行事

毎月28日
利休忌 - 千利休の月命日に、茶道三千家による法要と呈茶が交代で行われている。

歴史

1566年
三好義嗣が養父 三好長慶の菩提をとむらうため、大徳寺107世 笑嶺宗訴を請じて創建された。
1573年
織田信長により三好氏本宗が滅亡し檀越を失った。
1583年
現在の本堂(方丈)が建立された。
1589年
千利休が菩提所とした。
1741年
表千家7代 如心斎が、茶室「閑隠席」を造営した。

撮影後記

 普段は公開塔頭ではありませんが、「京の冬の旅」で特別公開していた際にお邪魔させてもらいました。 ただ残念なことに、平成25年の台風18号の被害で、方丈屋根の修復工事が行われることになり、名勝庭園が鉄骨の間から拝観するようになってしまったのが心残りでした。 せめて、拝観料700円を割り引いてくれればと思うのですが。 京都の拝観料の設定料金は割高ですよね。 地方の寺院を拝観していると、いつもそう思ってしまいます。 まぁ、三千家という檀越がいるこの寺院には関係ない話ですが。

更新履歴

2015年2月3日
初版をアップロードしました。
2015年10月26日
ギャラリーに作品を1点追加しました。

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