天王山

天下分け目の天王山

大山崎町にある標高270mの山で、 山頂付近に酒解神社が鎮座する。羽柴秀吉が明智光秀に代わって天王山に陣取り、山崎の戦いで勝利して天下を取ることとなった。「天下分け目の天王山」というフレーズは名高い。

天王山

天王山について

基本情報

名称
天王山(てんのうざん)
駐車場
専用駐車場なし
交通機関
JR山崎駅、阪急大山崎駅から徒歩
所在地
京都府乙訓郡大山崎町

概要

大山崎町西端にある標高270メートルの山で、 西側の山腹が摂津国(大阪府)との境界となっている。 山頂付近に酒解神社が鎮座し、かつては牛頭天王を祀る山崎天王社であったことに山名は由来する。 南北朝時代には既に山城が築かれた防衛の要衝であった。 戦国時代には明智光秀が山崎城に陣取ったが撤退し、翌日羽柴秀吉軍が代わって陣取り、山崎の戦いで勝利した。 結果、この山を制した豊臣秀吉が天下を取ることになったことから、「天下分け目の天王山」といわれる。 また幕末には、長州藩進発派に反対する久坂玄瑞軍が陣を構え、禁門の変で惨敗を喫し、真木和泉ら長州藩士が立て籠もり自爆している。

見所

国重要文化財
自玉手祭来酒解神社神輿庫 - 鎌倉時代後期の建立。現存する板倉形式としては正倉院正倉中倉に次いで古いもの。
国登録文化財
自玉手祭来酒解神社本殿 - 江戸時代後期の再建。
観光名所
山頂(山崎城跡) - 標高270.4mで、五輪の塔、石仏、墓石、井戸の跡などがある。山頂南斜面に自然地形を利用した山城「山崎城(宝寺城)」が南北朝時代に築かれていた。山崎の戦いから大坂城が築城するまで豊臣秀吉が本拠地とした。
自玉手祭来酒解神社(酒解神社) - 山頂付近に鎮座する式内社。奈良時代の創建とされ、現在の離宮八幡宮の地に「山崎社」として鎮座していた。中世に山上に遷座し、明治10年に現在地に鎮座していた山崎天王社を酒解神社とされた。神輿庫は国の重文。
旗立松展望台 - 八合目付近にあり、その眺望は「京都の自然二百選」に選ばれている。山崎の戦いで秀吉が軍旗を松にかかげたという。
青木葉谷展望広場 - 七合目付近にあり、大阪平野や桂川・宇治川・木津川が合流して淀川となる三川合流地点が見下ろせる。
十七烈士の墓 - 禁門の変で惨敗した長州藩士の真木和泉ら17士は天王山に立て籠もり、会津藩や新撰組の近藤勇らに攻められ、最期は火薬に火を放って皆共々爆死した。

歴史

1338年
摂津守護赤松範資の書状に山崎城(鳥取尾城)の記述が初見される。
応仁の乱
大内政弘軍が摂津侵攻し、山名是豊軍が京都を防備するため山崎城に布陣した。
1482年
桂川原の戦いで、細川晴元軍の波多野稙通が、薬師寺国長が立て篭もる山崎城を落城させた。
1582年
明智光秀軍が山崎城に陣取ったが撤退し、翌日羽柴秀吉軍が山崎城に代わって陣取り、山崎の戦いで勝利した。
1584年
秀吉は山崎城を普請し一時本拠としたが、大坂城が落成し廃城となった。
1864年
長州藩進発派に反対する久坂玄瑞軍が陣を構え、禁門の変で惨敗を喫し、真木和泉ら長州藩士が立て籠もり自爆した。

撮影後記

 名神高速の天王山トンネルが山体を貫いています。 はるか昔にNHKの「プロジェクトX」という番組で、「日本初のハイウェイ 勝負は天王山」というタイトルで取り上げられていました。 天王山は豊富な地下水に恵まれ、山麓にシングルモルトウイスキー「山崎」で名高いサントリーの山崎蒸溜所があります。 当初は天王山を迂回するルートが計画されていたのですが、水への影響があるとのクレームからトンネルで貫通することになりました。 天王山には竹が生い茂っていて、土木の世界では昔から「竹藪の下は掘ってはいけない」との定石があるそうです。 この軟弱地盤をいかに制するかが、熊谷組技術者の腕の見せ所という内容でした。

更新履歴

2015年9月18日
初版をアップロードしました。

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