宝筐院

嵯峨野屈指の紅葉名所

平安時代創建の臨済宗単立寺院で、庭園は嵯峨野屈指の紅葉名所として人気が高い。境内奥には、楠木正行の石塔と、敵ながら人柄を慕い、その遺命により傍らに埋葬された将軍 足利義詮の石塔が並んで立っている。

宝筐院

宝筐院について

基本情報

山号寺号
善入山宝筐院(ぜんにゅうざんほうきょういん)
宗派
臨済宗単立
創建
1072年~1085年
開基
白河天皇
本尊
千手観世音菩薩
駐車場
駐車場なし
交通機関
嵯峨釈迦堂前バス停徒歩3分、JR嵯峨嵐山駅徒歩15分
住所
京都府京都市右京区嵯峨釈迦堂門前南中院町9-1
サイト
宝筐院

概要

嵯峨野にある臨済宗単立寺院で、室町幕府2代将軍 足利義詮の塔所である。 平安時代に白河天皇の勅願寺「善入寺」が創建されたのが起源。 幕末に廃寺となったが、大正時代に天龍寺管長らによって旧境内地が買い戻され、伽藍を整え再興が行なわれた。 青苔に楓などが植えられた回遊式庭園は、嵯峨野屈指の紅葉名所として人気が高い。 境内奥には石塔が並んで立っている。 五輪塔は楠木正成の嫡男で南朝に与した楠木正行(まさつら)の首塚で、三重塔は南北朝の敵ながら正行の人柄を慕い、その遺命により正行の傍らに埋葬された足利義詮の墓である。

見所

国重要文化財
絹本著色足利義詮像
観光名所
本堂
庭園 - 青苔に楓などが植えられた回遊式庭園は、嵯峨野屈指の紅葉名所として人気が高い。
五輪塔 - 楠木正成の嫡男で南朝に与した楠木正行(まさつら)の首塚。四條畷の戦いで北朝の高師直らに敗れ自刃し、正行が帰依していた黙庵により首が当院に葬られたとも伝わる。
三重石塔 - 室町幕府2代将軍 足利義詮の墓。義詮も黙庵に帰依していたため、南北朝の敵ながら正行の人柄を慕い、その遺命により正行の傍らに埋葬された。

歴史

1072~1085年
白河天皇の勅願寺「善入寺」が創建されたのが起源。
鎌倉時代
平安時代末期から鎌倉時代にかけて数代にわたり皇族が入寺した門跡寺院であった。
1345~1350年
貞和年間、夢窓疎石の高弟 黙庵周諭(もくあんしゅうゆ)が入寺し、臨済宗寺院として中興した。
1348年
四条畷の合戦で、南朝の楠木正行が北朝の高師直らに敗れ自刃し、正行が帰依していた黙庵により首が善入寺に葬られた。
南北朝時代
黙庵に帰依していた将軍 足利義詮により伽藍の整備が行われた。
1367年
足利義詮が死去し、南北朝の敵ながら正行の人柄を慕い、その遺命により善入寺の正行の傍らに埋葬された。
1449~1473年
八代将軍 足利義政の時代、義詮の院号に因み「宝筐院」と改号された。
応仁の乱
兵火で荒廃し、その後衰退していった。
江戸時代
天龍寺末寺の小院となり、幕末に廃寺となった。
大正6年
天龍寺の高木龍淵や実業家 川崎芳太郎によって、楠木正行の菩提を弔う寺院として、旧境内地が買い戻され、伽藍を整え再興が行なわれた。その後に茶室が移築され、現在の本堂が新築された。

撮影後記

 紅葉の名所として非常に人気の高い宝筐院。 門前はしばしば通るのですが、四年前に訪問して以来、お邪魔していないなぁ。 だって、山門の看板見ると、おっかなそうな雰囲気で入りずらいし。 大部分が撮影目的だし・・・。 庭園が素晴らしかったので、他の季節も撮りたいことは撮りたいのですが。 いっそのこと、その類の寺院のように撮影禁止にしてくれたら、写欲はなくなるのですが。 君子じゃないけど、危うきに近寄らずってとこで、看板が撤去されたら、新緑とか撮影してみたいですね。

更新履歴

2012年12月18日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年1月1日
一部の無料壁紙を会員限定の閲覧に制限しました。

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