悲田院

聖徳太子の貧民救済施設

真言宗泉涌寺派総本山泉涌寺の塔頭である。聖徳太子が貧しい人や孤児を救うために設けた施設「悲田院」が起源と伝わる。1308年、無人如導がこれを一条安居院に再興し、高槻城主永井直清が1646年に現在地に移した。

悲田院

悲田院について

基本情報

山号寺号
泉山悲田院(せんざんひでんいん)
宗派
真言宗泉涌寺派
寺格
泉涌寺塔頭
創建
1308年(延慶元年)
開山
無人如導
開基
伝 聖徳太子
本尊
阿弥陀如来
札所
京都泉山七福神巡り(毘沙門天)
駐車場
無料駐車場あり
交通機関
泉涌寺道バス停徒歩10分、京阪・JR東福寺駅徒歩15分
住所
京都府京都市東山区今熊野悲田院山町35-1

概要

真言宗泉涌寺派総本山泉涌寺の塔頭のひとつ。 寺伝によれば、聖徳太子が三条鴨川の西岸に貧しい人や孤児を救うために設けた福祉施設が起源と伝わる。 平安京の悲田院と寺院としての悲田院の関係は不明ではあるが、1308年(延慶元年)無人如導がこれを一条安居院(上京区青木町)に再興し、四宗兼学の道場としたという。 後花園天皇はこの寺を勅願寺とされ、当院に葬り奉られた。 以降当院住職は代々天皇の綸旨を賜わり紫衣参内が許された。 1646年(正保3年)泉涌寺80世如周恵公が高槻城主の永井直清の帰依により、現在地に移され泉涌寺の塔頭となったのが現在の悲田院である。

見所

観光名所
本堂 - 正保年間(1645年~1648年)の建立。逆手の本尊阿弥陀如来立像や快慶作と伝えられる宝冠阿弥陀如来坐像を安置。土佐光起・光成などの土佐派と橋本関雪の襖絵がある。
毘沙門堂 - 成人の日に行われる泉涌寺七福神めぐり第六番の毘沙門天が祀られている。
墓地 - 高槻藩永井家累代の墓。林羅山選の永井直勝公の碑が立っている。

行事

1月初寅日
初寅祭
1月成人の日
泉涌寺七福神めぐり - 第6番として毘沙門天を奉祀し、福笹の授与を行う。
8月16日
精霊送り法要 - 境内から五山送り火が眺められる。
9月最終日曜日
東仙流々祖忌 - 泉涌寺長老を家元としている煎茶道東仙流の総司所。

歴史

飛鳥時代
寺伝によれば、聖徳太子が三条鴨川の西岸に貧しい人や孤児を救うために設けた施設が起源と伝わる。
平安時代
左京に東悲田院、右京に西悲田院が設けられた。
鎌倉時代
西悲田院が廃絶した。
1308年
無人如導が西悲田院の系譜である上悲田院を一条の安居院(上京区青木町)に再興させ、天台、真言、禅、浄土の四宗兼学の道場とした。
1381年
牛増が上京区扇町に移転させ再興した。
室町時代
後花園天皇が安居院を勅願寺とした。
1471年
後花園天皇が崩御され当院に葬り奉られた。
1573年
織田信長の上京焼討ちで焼失した。
1645年
泉涌寺80世如周恵公が高槻城主の永井直清の帰依により、上京区扇町より現在地に移され泉涌寺の塔頭になった。
明治18年
塔頭寿命院と合併して再興された。

撮影後記

 泉湧寺道から脇道に少し入ったところにある塔頭で、境内からは京都市街の眺望が利きます。 以前に堀川紫明にある大應寺(臨済宗相国寺派)をアップしましたが、ここが上京区扇町にあった悲田院の旧地になります。 拝観もしているようで、御住職自ら懇切丁寧に説明しながら案内してくれました。 京都の寺院で、これほど丁寧に対応して頂いたのは今までで二度目かな。

更新履歴

2015年10月12日
初版をアップロードしました。

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