法住寺

後白河院の法住寺殿

平安時代末、後白河上皇の院御所「法住寺殿」が営まれた旧跡にある天台宗寺院。平家の外護で造営された法住寺殿は、十余町に及ぶ壮大な御所であった。上皇が崩御されると御陵となり、近世まで御陵を護持した。

法住寺

法住寺について

基本情報

寺号
法住寺(ほうじゅうじ)
別称
法住寺殿跡
宗派
天台宗
創建
988年(永延二年)
開基
藤原為光
本尊
不動明王
駐車場
無料駐車場あり
交通機関
博物館三十三間堂前バス停徒歩3分
住所
京都府京都市東山区三十三間堂廻り655
サイト
法住寺

概要

平安時代末期、後白河上皇の院御所「法住寺殿」が営まれた旧跡にある天台宗寺院である。 988年(永延二年)、太政大臣 藤原為光が、妻と花山天皇女御となった娘の菩提を弔うために創建したのが起源。 1161年(永暦2年)から法住寺を中心に法住寺殿が、平家の外護で造営された。 南殿、西殿、北殿からなる十余町に及ぶ広大な御所であった。 後白河上皇が崩御されると御陵として法華堂が建立され、明治時代に宮内省の管轄とされるまで御陵を護持した。

見所

宮内庁治定
後白河天皇法住寺陵 - 東隣にある後白河法皇の陵墓。後白河上皇の院御所「法住寺殿」は、10町余りの広大な敷地をもち、中心となる南殿の他、西殿、北殿が造営された。平安時代末、木曽義仲の侵攻で南殿は焼失した。
観光名所
不動堂 - 円仁が造立し、後白河上皇の念持仏であった本尊不動明王像を安置。法住寺合戦の際、木曽義仲軍が放った矢に天台座主 明雲が倒れ、法皇は無事であったことから、身代わりとなったと語り継がれ、「身代不動明王」という。
阿弥陀堂 - 親鸞18歳の時の自刻という阿弥陀如来像を安置。明治初頭、東山渋谷にあった佛光寺旧地から遷された。
旧御陵正門 - 後白河天皇御陵の旧正門に建つ龍宮造りの楼門。門前に「法住寺殿蹟」の石標が立つ。
鎮守堂 - 豊川稲荷、厳島弁才天などをお祀りする。

行事

1月1~7日
修正会 - 新春護摩祈祷会。
1/15近接日曜
大根炊き - 無病息災を祈願して、大根炊きが振る舞われる。
1月28日
初不動 - 毎月28日は縁日で、力こんにゃく、力餅の供養がある。
2月3日
節分会 - 星供採灯大護摩供、鬼法楽、撒豆式。
4月28日
春の大祭 - 本尊身代不動明王との結縁護摩。
10月第2日曜
今様歌合せ - 日本今様謌舞楽会による歌合せ。
11月15日
身代不動尊大祭 - 邦楽の奉納、添護摩木数万本が焚きあげられる大護摩供が厳修される。
12月14日
義士会法要 - 赤穂四十七義士像前において法要が営まれ、討ち入りそばの供養がある。

歴史

988年
太政大臣 藤原為光が、妻と花山天皇女御となった娘の菩提を弔うために創建した。
1032年
九条邸からの類焼で伽藍を焼亡した。
1161年
法住寺を中心に後白河上皇の院御所「法住寺殿」が造営された。
1163年
平清盛の寄進で、南殿北側に蓮華王院(三十三間堂)が建立された。
1176年
後白河上皇女御 建春門院(平滋子)が死去し、御陵として法華堂が建立された。
1183年
木曾義仲によって南殿が焼き討ちにされ(法住寺合戦)、後白河上皇は長講堂に移った。
1192年
後白河上皇が長講堂で崩御され、建春門院の法華堂の南側に法華堂が建立され、御陵と定められた。
中世
法住寺は後白河天皇の御陵を護持した。
江戸時代
法住寺は妙法院門跡の院家として待遇され、引き続き後白河天皇陵を護持した。
明治維新
廃仏毀釈で後白河天皇稜が宮内省の管轄とされ、「大興徳院」と改名された。
昭和30年
「法住寺」に復した。

撮影後記

 後白河院は幼き頃から、今様を好んだといわれます。 今様とは呼んで字の如く現代風という意味で、今の流行歌に相当するのでしょうか。 歌詞が七五調四句で1コーラスを構成するのが特徴で、「荒城の月」や「蛍の光」は今様形式の歌詞を当てはめてあるそうです。 有名な「遊びをせんとや生れけむ」の「梁塵秘抄」は、今読んでもカッコよく、現代に生を宿していたとしたら、有名アーティストになっていたのかもしれませんね。

更新履歴

2015年3月5日
初版をアップロードしました。

法住寺紀行のコメント

コメントを書く

お名前 ※
ホームページ
コメント本文 ※
認証キー ※ (半角)
Captcha Code

フェイスブックを開始しました。上のタブからどうぞ。

おすすめギャラリー

鎌倉

鎌倉紀行

作品追加中
さくら

さくら紀行

作品追加中
美瑛・富良野