京都 四季の古都紀行
Kyoto: Ancient Capital for Thousand Years
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京都 四季の古都紀行
Kyoto: Ancient Capital for Thousand Years
桂川源流域に位置する花脊は、冬は寒さが厳しい豪雪地帯で、平安時代に宮中に木材を供給する地として定められ、昭和初期までスギやヒノキの伐り出し地として山に依拠した生産活動を展開していた地域である。 男たちは樵(きこり)、女たちは冬季の間に焼かれた炭を背負い、雪の旧花背峠を越え鞍馬へ送られ、都で鞍馬炭として売られた。 もとは上桂川の支流である寺谷川流域の原地新田(原地町)一帯が花脊と呼ばれ、花の美しい北山の背にあるから、花の都京都の北の背骨に位置するからなど語源は諸説ある。 この原地町には、12世紀に鳥羽上皇の勅願により開創された修験道系の本山修験宗寺院の峰定寺がある。 天台宗の念仏別所があつた別所町は、弥勒信仰による北方浄土の地として、福田寺を中心とした大平の谷の尾根筋に「花背経塚群」が造られた。 古来から丹波国に属していたが、江戸時代の1645年に大布施、八桝、別所の3村が丹波国桑田郡から山城国愛宕郡に編入され、明治22年の町村制施行に伴い花脊村が成立し、昭和24年に京都市左京区に編入された。 毎年お盆には、市の無形民俗文化財に指定されている柱松行事「花脊松上げ」が盛大に行われる。
鞍馬の北に広がる花背は、四つの字が存在していますが、大きく分けて北の原地町・八桝町・大布施町と、南の別所町に分かれるかと思います。
大悲山峰定寺のある原地町は花背オリジナルの地、八桝町には京都市の山村都市交流の森があり、大布施町には小中学校をはじめ、左京区役所出張所や消防署の駐在所などがあり、花背の中心といえるかもしれません。
昭和初期まで丹波材の伐り出し地であり、男たちはキコリとして働き、蛇行する桂川経由で都まで筏に組んで運んだといいます。
女たちは15キロもの炭を背負い、明治時代に花背峠が開削されるまで雪の旧花背峠を越え鞍馬へと運び、味噌醤油と交換して生計を立てていました。
この辺りの方と話すと、平家の落人伝説の話がかえってくることも多く、昔ながらの山村集落という雰囲気が漂います。
一方、別所町の方はというと、芸術や山菜の工房などがあり、古の文化と新しい文化が融合する地域が創られているようです。
蕎麦屋「花せ屋 花竹庵」さんに、「ものの部の井戸 笹水」という名水がありました。
なんでも「物部」姓を名乗る家が多く、藤原氏系列の物部氏が住み着いたとも伝わるそうです。
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