等持院

足利尊氏の菩提寺

1341年創建の臨済宗天龍寺派の禅刹。足利尊氏が夢窓疎石を開山として迎え、衣笠山の南麓に創建した。尊氏の死後、その墓所となり等持院と改めた。十刹の筆頭禅院で、足利尊氏の菩提寺として知られる名刹である。

等持院

等持院について

撮影後記

 口を真一文字に結び上目遣いの達磨像(祖師像)が、お出迎えしてくれるお寺さんです。 ちょっとユーモラスであり、等持院といったら、真っ先にこれが頭に浮かんでしまいます。
 京都と鎌倉で撮影することが多い自分にとって、尊氏に所縁のある場所は興味深いものがあります。 鎌倉にも足利尊氏の菩提寺と称される長寿寺がありますが、真偽の程は置いといて、やぐらの五輪塔には尊氏の遺髪が埋められ、本堂には尊氏の歯が納められていると云われます。 尊氏の戒名は「等持院殿仁山妙義大居士長寿寺殿」と云うそうで、京都では「等持院殿」、東国では「長寿寺殿」で呼ばれたそうです。 最後に付けた長寿寺殿という戒名からも、京都のみならず鎌倉でも波乱万丈な生涯を送った武士だったんだと改めて感じました。

概要・歴史

1341年創建の山号を万年山とする臨済宗天龍寺派の禅刹。 創建は足利尊氏、開山は夢窓疎石、本尊は釈迦牟尼仏。 十刹の第一位の寺格で、足利尊氏の菩提寺として知られる名刹である。 1339年、足利尊氏が、足利氏の菩提寺として、現在の中京区三条高倉に「等持寺」を創建した。 1341年、足利尊氏が、仁和寺の小院をこの地に移し、天龍寺の夢窓疎石を迎え、等持寺の別院として「北等持寺」とした。 尊氏没後の1358年、等持寺別院の北等持寺に尊氏が葬られ、法名の「等持院仁山妙義」により寺号を「等持院」と改称。 応仁の乱により、三条高倉の等持寺が焼失し、別院だった等持院が本寺となった。 室町幕府の微衰により衰退したが、豊臣秀吉の命で豊臣秀頼が復興。 1818年、大規模な復興が行われ、現在の伽藍が完成した。

住所: 京都府 京都市北区等持院北町63

更新履歴

2011年8月11日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年1月1日
一部の無料壁紙を会員限定の閲覧に制限しました。
2015年2月25日
「洛西」カテゴリから移動しました。

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