阿弥陀寺

織田信長本廟

織田信長の帰依を受けた清玉上人が開山した浄土宗寺院。上人は、本能寺の変で討死した織田家百余名の遺骸を密かに集め、当寺に埋葬したと伝わる。大正時代、宮内庁調査により信長公墓が廟所であると確認された。

阿弥陀寺

阿弥陀寺について

基本情報

山号寺号
蓮台山阿弥陀寺(れんだいさんあみだじ)
別称
信長公本廟所、寺町阿弥陀寺
宗派
浄土宗鎮西派
寺格
百万遍知恩寺末
創建
1555年(天文24年)
開山
清玉(せいぎょく)
本尊
阿弥陀如来
札所
京都四十八願寺十六番
駐車場
無料駐車場あり
交通機関
出町柳駅徒歩10分、地下鉄今出川駅徒歩10分、河原町今出川バス停徒歩8分
住所
京都府京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町14

概要

織田信長の帰依を受けた清玉上人が開山した浄土宗寺院。 天文年間、近江坂本に創建したのが起源で、永禄年間に織田信長の帰依を得て、信長入洛に際して、今出川大宮東に八町四方の境内と塔頭十一ケ寺を構えていた。 清玉上人は、本能寺の変で自刃した織田信長・信忠父子の遺骸を火中から密かに集め、当寺に埋葬したと伝わる。 その後、豊臣秀吉の都市改造政策による寺町造成に伴い寺域を大幅に縮小され、現在の場所に移る。 大正時代、織田信長に正一位に追贈された際、宮内庁調査により信長公墓が廟所であると確認され、勅使の訪問を受けた。 境内には、信長はじめ百余名の討死衆の合祀位牌が現存、供養されている。

見所

観光名所
本堂 - 本尊阿弥陀如来像、傍らに織田信長・信忠父子の木像が安置。
山門 - 門前に「織田信長公本廟」の石碑が立つ。
織田信長・信忠の墓 - 本能寺の変や二条城で討死自刀した家臣百有余名の墓もある。
森蘭丸三兄弟の墓 - 信長の忠臣。成利・坊丸・力丸。
皆川淇園(みながわきえん)の墓 - 江戸時代の儒学者。
幻阿蝶夢(げんあちょうむ)の墓 - 松尾芭蕉復興運動の中核的な役割を担った俳人。

行事

6月2日
信長忌 - 信長の忌日、堂内が開放され各種寺宝も公開。

歴史

1555年
清玉上人が、近江国坂本に阿弥陀寺を創建した。
1558~1570年
永禄年間、織田信長の帰依を得て、信長入洛に際して、西ノ京蓮台野芝薬師西町(現在の今出川大宮東)に、八町四方の寺域と塔頭11ヶ寺の規模で移築された。
1570年
正親町(おおぎまち)天皇が深く帰依し、東大寺大仏殿の勧進職を命じ、勅願所とされた。
1582年
清玉上人は、本能寺の変で自刃した織田信長・信忠父子の遺骸を密かに集め、供養のため明智光秀の陣を訪ね、本能寺で討死した者と、二条城で自刃した織田信忠、百余名の遺体の収容の許可を得、当寺に埋葬したと伝わる。
1583年
豊臣秀吉は、清玉上人に、自身が喪主となり一周忌法要を行なうことを命じたが、清玉上人は辞退した。そこで、法事料として朱印や寺領を与えるとしたが固辞した。秀吉は、大徳寺に総見院を建て、大葬礼を7日間盛大に執り行い、阿弥陀寺での法事を禁じた。
1587年
豊臣秀吉の都市改造政策により、西ノ京蓮台野から現在の寺町に移転され、寺領は1/8に縮小された。
大正6年
織田信長に正一位に追贈された際、宮内庁調査により信長公墓が廟所であると確認され、勅使の訪問を受けた。

撮影後記

 阿弥陀寺というお寺は大原古知谷の阿弥陀寺をはじめ京都にいくつかありますが、ここで紹介しているのは寺町の信長ゆかりのお寺です。
 信長の墓所や霊廟などは全国各地にいくつかあります。 京都では、本能寺に信長公廟が、大徳寺塔頭の総見院にもあります。 なかでも、ここ阿弥陀寺は、秀吉に遺骸の差し出しを再三に渡って求められており、信長本廟である信憑性は最も高いと思います。 遺骸を手に入れることで信長亡き後の覇権争いの主導権を握るために、天正10年の大徳寺総見院での葬儀では、遺骸の代わりに木造の織田信長像2躰造り、1躰を棺に納め、もう1躰が総見院に残る重文の木造織田信長坐像です。 秀吉の思惑を嫌った清玉上人は、主家を乗っ取ることは人の道に在らずと拒絶し、その後に天下人となった秀吉は、寺領の大半を没収し、都市改造で寺町に移転させたのでした。

更新履歴

2012年2月22日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年3月23日
登録カテゴリを西陣・室町・紫野から移動しました。

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