大谷本廟

西大谷

浄土真宗本願寺派(西本願寺)の宗祖・親鸞の墓所とされ、「西大谷」と通称される。知恩院拡張造営に際し、江戸幕府は大谷道場の代替地として、親鸞が荼毘に付された鳥辺野の南(現在の東山五条)の地を与えた。

大谷本廟

西大谷について

撮影後記

 本願寺派門信徒の墓地で、境内奥には大谷墓地が清水寺まで続いていて壮観です。 また、昭和43年に第一無量寿堂、平成2年に第二無量寿堂という近代的な納骨所も造営され、地上だけでなく地下深くまで数多くの信徒が眠っています。
 要するに墓地なので撮影する気はなかったのですが、東山五条の交差点で信号待ちしていたとき、フロントガラス越しに入口の皓月池付近に咲いていたサクラが朝陽に宝石の如く耀き、あまりに美しかったので、横恋慕しちゃいました。 チョットのつもりが、付近の寺院も撮影していたら2時間くらい経過してしまい、近くに停めた駐車場の駐車料金が5000円くらいになっていてビックリしましたよ。(信徒の方は30台程度停められる西大谷の駐車場が東山五条の交差点を直進するとあります。) よく料金設定を確認して停めなかったので悔しさはありませんが、高い勉強代になりました。

概要・歴史

浄土真宗本願寺派(西本願寺)の宗祖・親鸞の墓所とされ、「西大谷」と通称される。 本尊は阿弥陀如来。 1262年、親鸞は、舎弟・尋有の住房「善法坊」(現在の角坊別院)において90歳で入滅。 遺弟たちによって鳥辺山南辺(現在の西大谷御荼毘所)で火葬され、遺骨は鳥辺野北辺の「大谷」に納められた。 その後、親鸞の末娘・覚信尼(かくしんに)が、遺骨を現在の知恩院崇泰院付近に堂を建て、影像を安置した。 この廟堂は、「大谷影堂」と称され、後に「大谷本願寺」となった。 1465年、第八代宗主・蓮如のとき、延暦寺西塔の衆徒らによって大谷本願寺破却された(寛正の法難)。 破却後、「大谷道場」と称した。 その後、「天文の錯乱」や「石山合戦」で道場が破却されたが復興。 1603年、知恩院拡張造営に際し、親鸞荼毘の「延仁寺」の旧地と伝えられる鳥部山(現在の東山五条)に移転させられ、「勝久寺」と号した。 旧地には知恩院塔頭「崇泰院」が建立された。 本願寺東西分立後、「勝久寺」は西本願寺に属し、親鸞廟所として整備され、「大谷本廟」となった。

住所: 京都府 京都市東山区五条橋東6丁目514

更新履歴

2011年9月19日
初版をアップロードしました。
2012年1月20日
ギャラリーに作品を3点追加しました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。

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