妙法院

天台宗三門跡

東山七条にある天台宗三門跡のひとつ。かつて方広寺や蓮華王院を管理下に置き、現在も三十三間堂の本坊になっている。豊臣秀吉による大仏開眼千僧供養の舞台となり、台所として建てられた庫裏は国宝指定されている。

妙法院

妙法院について

基本情報

山号寺号
南叡山妙法院(なんえいざんみょうほういん)
別称
妙法院門跡、綾小路房、綾小路御所、綾小路宮
宗派
天台宗
創建
平安時代初期
開山
最澄
開基
恵亮
本尊
普賢菩薩
駐車場
駐車場なし
交通機関
東山七条バス停徒歩2分、京阪七条駅徒歩10分
住所
京都府京都市東山区妙法院前側町447

概要

東山七条にある天台宗三門跡のひとつで、近世には方広寺や蓮華王院(三十三間堂)を管理下に置き、現在も三十三間堂の本坊になっている。 もとは比叡山三千坊の一つとして草創され、本坊は比叡山西塔にあり「本覚院」と称していたと伝わる。 妙法院は、本覚院の快修が、この別号で呼称されたことに始まる。 興隆の基が開かれたのは、後白河上皇の院政庁「法住寺殿」に接して里坊が開かれたといわれる頃である。 豊臣秀吉による方広寺大仏殿建立に伴い、当院は大仏開眼千僧供養の舞台として経堂が再建されている。 千僧供養を行った際の台所として建てられたといわれる庫裏は国宝。 重文の玄関と大書院には、狩野派の作といわれる障壁画で彩られ、桃山時代の豪壮な特徴をみせる。

見所

国宝
庫裏 - 豊臣秀吉が大仏殿で千僧供養を行った際の台所として建てられたといわれる。貫や梁をそのまま見せた入母屋造の野天井で、土間、板間、座敷に分かれ、屋根組は煙出しに通じている。
ポルトガル国印度副王信書 - インド半島西岸のポルトガル領ゴア副王から豊臣秀吉に宛てのキリスト教弾圧政策の緩和を求めた羊皮紙の書簡。豊国廟が破却されたときに当院に移管された。
国重要文化財
大書院 - 1619年、東福門院の女院御所旧殿を移築したもので、狩野派による金障壁画がある。桃山時代の豪壮な特徴をみせる遺構。
玄関 - 1673年の被災後に再建された東福門院の旧殿を移築。壁と襖の松の絵は狩野永徳の筆。
妙法院障壁画58面(附紙本著色秋草図・紙本金地著色遊図衝立)-玄関、大書院の障壁画で、近世初期の狩野派の作といわれる。
木造普賢菩薩騎象像 - 平安時代末期の本尊。
木造不動明王立像 - 平安時代前期の作。護摩堂の本尊。
秋草蒔絵文台 - 安土桃山時代の作。
紙本墨書後小松天皇宸翰消息
内証仏法相承血脈譜
堂供養記2巻(春記、大記)
絹本著色後白河法皇像 - 法衣袈裟姿で念珠と経巻を持つ寿像。(東京国立博物館寄託)
明官服類(文禄五年豊臣秀吉受贈) - (京都国立博物館寄託)
観光名所
本堂 - 本尊の普賢菩薩騎象像を安置し、普賢堂とも称さられる。
宸殿 - 天皇位牌23基、皇后中宮位牌39基を奉安する。三条実美ら尊皇攘夷派の公卿七名が京都から追放された「七卿落ち(八月十八日の政変)」の舞台。
龍華蔵 - 秀吉の遺品を数多く収蔵する収蔵庫。
積翠園(しゃくすいえん) - 境内北側のフォーシズンホテルの敷地内にある池泉回遊式庭園。平清盛の長男である重盛の山荘庭園(小松邸)の遺構ともいわれる。かつて妙法院には大池泉の庭園があったが、昭和29年に大半が売却された。

歴史

平安時代初期
比叡山三千坊の一つとして草創され、本坊は比叡山西塔にあり「本覚院」と称し、円仁弟子の西塔院主 恵亮に始まるとも伝わる。
1156年
後白河天皇がこの地に法住寺殿を造営し、法住寺殿に接して里坊を開いたとも伝わる。
1160年
後白河上皇が、新日吉社(新日吉神宮)の初代別当に妙法院16世の昌雲を任命した。
1164年
後白河上皇の勅命を受けた平清盛が、法住寺殿の一画に私財が投じて蓮華王院仏堂(三十三間堂)を建立した。
鎌倉時代
18世 尊性法親王(後高倉天王の皇子)が入寺してから、天台三門跡のひとつとなり門跡寺院としての地位が確立し、「綾小路房」「綾小路御所」「綾小路宮」などと称され、東山区祇園町南側あたりに房舎があったともいう。
1291年
後白河法皇百回忌供養は、妙法院門主の尊教が三十三間堂において行われた。以後、50年ごとの聖忌供養は、妙法院門主が三十三間堂にて行うことが慣例となった。
1340年
近江守護職の佐々木導誉により、綾小路坊は火を放たれた。
応仁の乱
兵火に遭い、比叡山にあった本坊に避難した。
安土桃山時代
比叡山にあった本坊は東山綾小路に移り、この地の勝安養院が妙法院と呼ばれ、祇園社と鴨川の間に位置したともいう。
1595年
豊臣秀吉による方広寺大仏殿建立に伴い、大仏経堂として大仏殿境内に移転させられた。日本仏教の八宗の僧を800人集めた千僧供養では、経堂が会場となり、庫裏は台所に使われた。
1598年
豊臣秀吉没後、方広寺と蓮華王院が妙法院の管理下に置かれた。
1615年
豊臣家廃絶後、現在地に移転した。豊国神社の社地は妙法院に与えられ、妙法院門主が方広寺住職を兼務した。
1708年
京都御所炎上で霊元上皇の仮御所となった。
1863年
七卿落ち(八月十八日の政変)では、三条実美ら尊皇攘夷派の公卿七名が妙法院宸殿で最後の夜を過ごした。
明治維新
新日吉神社が分離し、豊国廟は神祇官に引き継がれた。方広寺は独立し、寺域の大半が上知された。
昭和29年
積翆園の大部分が売却された。

撮影後記

 三千院、青蓮院とともに「天台三門跡」と並び称されてきた名門跡寺院です。 他の二門跡と異なり、三十三間堂の観光収入があるためか観光寺院化しておらず、春や秋に特別公開がある程度です。
 この妙法院、後白河法皇による法住寺殿や豊臣秀吉の大仏殿ともゆかりなことから、東山七条エリアに点在する有名寺社とは、なんらかの関わりを持っています。 かつては敷地面積4.5万平米にも及んでいたそうで、土地が接収され現在は20分の一ほど。 最近まで境内の北側に、東山武田病院が開院していました。 ここも接収された寺領の一部で、かつての池泉庭園の名残が残されています。 現在、マレーシアの不動産投資会社によってホテルになろうとしています。(再来年オープン予定) 戦後、専売公社が買い取り、病院以外に使用しないという一筆を入れ専売病院として経営してきた経緯があるそうです。 外資系ホテルになる前に、撮影しとけばよかったかな。

更新履歴

2013年2月15日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。

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