祇王寺

「平家物語」悲恋の尼寺

大覚寺門跡の塔頭で真言宗大覚寺派の寺院。「平家物語」で、平清盛の寵愛を受けた白拍子の祇王が、清盛の心が離れてしまい尼僧として当寺で余生を送ったことで知られる。また、紅葉の名所としても知られている。

祇王寺

祇王寺について

撮影後記

 祇王に関する「平家物語」の悲恋のお話を。 平清盛は、白拍子の名手であった若く美しい祗王を寵愛していました。 しかし、さらに若く妖艶な加賀国の白拍子の仏御前が出現し、清盛の心が仏御前に移ってしまったのです。 世の無情を知った祗王は、妹の祗女と母親の刀自と共に当寺に出家したというお話です。 このとき祗王は21歳、仏御前は17歳であったと云われています。 その後、仏御前も清盛に捨てられ、祗王を訪ねて同じ仏門に入ったという話もありますが。 祗王も平家物語の清盛も一瞬の栄華、そしてサクラもしかり。 ですので、晩秋の「散り紅葉」が有名ですが、ギャラリーにも掲載した「散り桜」の方が、本当はこの悲恋の尼寺には似合う気がします。 散り紅葉だと、どちらかといえば母親の刀自(笑)に結びついてしまうので。
 なお、境内は離れていますが、明治時代に大覚寺の塔頭となった経緯があり、共通拝観券を購入すると割安になります。

概要・歴史

山号を高松山とする真言宗大覚寺派の寺院。 創建は良鎮、本尊は大日如来。 院号は往生院である。 「平家物語」で、平清盛の寵愛を受けた白拍子の祇王が尼僧として余生を送ったことで知られる。 寺伝のよれば、平安時代末に法然の弟子である念仏房良鎮が創建した「往生院」が起源である。 平清盛の寵愛を失った白拍子の祗王が、母親の刀自(とじ)と妹の祗女を伴って剃髪し、この地に隠棲した。 その後、衰退。 明治時代初期に廃寺となるが、大覚寺の支配を受け真言宗に改宗。 明治28年、大覚寺の楠玉諦師が再建を計画していた時に、京都府知事の北垣国道が別荘地の茶室を寄進し本堂が再建された。 明治38年、富岡鉄斎らの尽力もあって復興を遂げた。 境内には、祇王姉妹等の墓と伝える宝篋印塔がある。 紅葉の名所としても知られる。

住所: 京都府 京都市右京区嵯峨鳥居本小坂32

更新履歴

2011年9月3日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年1月1日
一部の無料壁紙を会員限定の閲覧に制限しました。

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