蓮光寺

負別如来

「負別山」と号する浄土宗の寺である。1492年、真盛上人が開創し、豊臣秀吉によって現在地に移された。本尊阿弥陀如来像は快慶作と伝え、「負別(おいわけ)如来」と称す。境内には土佐の長曽我部盛親の墓がある。

蓮光寺

蓮光寺について

基本情報

山号寺号
負別山蓮光寺(ふべつざん / おいわけざん れんこうじ)
宗派
浄土宗
創建
1492年(明応元年)
開山
真盛 - 天台宗真盛派(現在の天台真盛宗)祖。
開基
真盛
本尊
阿弥陀如来
札所
京都四十八願寺 第35番
駐車場
専用駐車場なし
交通機関
地下鉄五条駅徒歩5分
住所
京都府京都市下京区本塩竈町534
サイト
蓮光寺

概要

「負別山」と号する浄土宗の寺である。 1492年(明応元年)、天台宗真盛派の祖 真盛上人が新町通松原に開創し、豊臣秀吉によって現在地に遷され、浄土宗に改めた。 本堂の本尊阿弥陀如来像は快慶作と伝え「負別(おいわけ)如来」と称される。 その昔、快慶が東国の覚明という僧の求めに応じて阿弥陀如来像を作った。 会心作であったため快慶は護持したいと考え直し、山科まで覚明を追いかけると、僧の護持した仏像が自ら二体に分かれ、二人はその各像を背負って東西に別れたと伝えられる。 この負別如来はその一体であるといわれ、山号はこれに由来している。 境内には、土佐の長曽我部盛親の墓がある。

見所

観光名所
本堂 - 明治29年の再建。本尊阿弥陀如来像は快慶作と伝わり「負別阿弥陀如来」と称される。1701年、勧修寺二品法親王より、山号「負別山」の染筆を下賜され掲げられている。
地蔵堂 - 安置されている地蔵菩薩は、かつて六条河原の刑場に祀られ、鴨川の氾濫で埋もれていたが、平清盛の乗馬が急に動けなくなり、地面を掘ってみると地蔵尊が現れたという。以来「駒止地蔵」と呼ばれる。
墓地 - 戦国武将の長曽我部盛親の五輪供養塔がある。当山住職と親交があり、大阪夏の陣に敗れ六条河原で斬首された首級を墓地に葬って供養した。

歴史

1492年
天台宗真盛派の祖 真盛が、高野山苅萱堂を模して下京区新町高辻に草庵を結び、「萱堂」と称した。
1591年
豊臣秀吉の都市改造政策により現在地に遷り、真盛弟子の玉譽が浄土宗に改め、二世順譽のとき「蓮光寺」と号した。
1788年
天明の大火で焼失した。
1864年
蛤御門の変(禁門の変)で焼失した。
明治29年
本堂が再建された。
昭和58年
本堂が改修され、書院、庫裏が再建された。

撮影後記

 負別阿弥陀如来のもう一体の方はというと、仙台市泉区福岡にある伊達綱村の寄進で建立された阿弥陀堂に安置されているそうです。 こちらは宮城県の指定有形文化財で、蓮光寺にある快慶作の阿弥陀如来像を、覚明が笈に入れて湯殿山に持帰る途中に、山科の追分で笈を開くと分身して二体になったので、「笈分(おいわけ)如来」とされるそうです。

更新履歴

2015年1月15日
初版をアップロードしました。

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