亀山城址

大本本部「天恩郷」

明智光秀によって丹波統治の拠点として築城され、江戸初頭には5重天守を持つ近世城郭として整備された。大正時代、荒廃していた城を宗教法人大本が購入し、現在は本部が置かれ宣教の中心地「天恩郷」となっている。

大本天恩郷

大本天恩郷について

撮影後記

 三重の亀山市ではなく、京都の亀岡市にある亀山城で、別名亀岡城とも云うそうで、なんだかヤヤコシイ。 はじめて亀山城址を訪問したのは、亀岡市の神蔵寺の紅葉ライトアップを撮影しようかと思ったときでした。 神蔵寺で撮影しようかと思っていたら、既にライトアップ期間が過ぎていて、神蔵寺にあった市のポスターを見て、それなら亀山城址の紅葉ライトアップでも撮影しようということになりました。 当時、大本のことは全く知らず、亀山城址に着いてみたら、史跡とはどこか雰囲気が違うことに気が付きました。 そしてここが、宗教団体の本部であることを知った次第です。 結局、一般の見物人は私と私の連れしかいないようで、少々不安になりました。 トイレを貸してほしいと願い出たら、神社の禰宜さんのような出で立ちの方が親切にも建物の奥の方へ案内してくれ、勧誘されるんじゃないかとビクついていましたっけ(笑)。 後で調べたら、霊能者が開祖の団体なのでカルト宗教かと疑いましたが、「万教同根」の教義に基づき、宗教間対話に先駆的な実践を行ってきたことなどを知り、神道系新教派でヤバイ人たちではないことがわかりました。 信者ではありませんが、エスペラントを学ぶ姿勢や「宗教の無くなる世の中が弥勒の世である」という教祖の思想には共鳴できます。

概要・歴史

1578年、明智光秀が亀岡盆地の中心地である亀山に築城を開始した。 光秀の丹波平定後、しばらく亀山城が拠点となったが、本能寺の変の後、羽柴秀吉に敗れ討死。 次に、天下統一した秀吉の重要拠点として一門の羽柴秀勝、豊臣秀勝、小早川秀秋、前田玄以などが入った。 秀吉の死後、徳川家康もこの城を重要視し、岡部長盛を入封させ、丹波亀山藩主に任じた。 さらに「天下普請」により幕府が西国大名に命じ近世城郭として亀山城を大修築した。 藤堂高虎が縄張りを勤め、本丸には5重の層塔型天守が上がった。 1748年以降は、形原松平氏が居城した。 明治4年、亀山県が置県され廃藩となった。 明治6年、陸軍省が城の存廃を決定し建物の一部を払い下げた。 明治10年、政府が廃城処分を決定。 明治22年、市町村に払い下げされ転売された。 大正8年、荒廃していた亀山城を、宗教法人大本が購入して拠点とする。 その後、大本によって天守台・石垣・堀・土塁などを改修。 昭和10年、日本の警察により治安維持法を適用した宗教弾圧としては日本初となる第二次大本事件で、跡形も無く破壊された。 戦後、教団によって修復され現在に至る。

住所: 京都府 亀岡市荒塚町内丸1

更新履歴

2011年8月13日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年1月1日
一部の無料壁紙を会員限定の閲覧に制限しました。

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