報恩寺

鳴虎

「鳴虎」の通称で知られる1501年中興開山の浄土宗の寺である。寺宝「鳴虎図」は、秀吉が気に入り聚楽第に持ち帰ったところ、毎夜吠えて眠れず寺に返したという逸話があり、客殿は黒田長政が最期を迎えた部屋である。

報恩寺

報恩寺について

基本情報

山号寺号
尭天山報恩寺(ぎょうてんざんほうおんじ)
別称
鳴虎(なきとら)
宗派
浄土宗
創建
伝 平安時代
中興開山
慶誉(きょうよ)
開基
後柏原天皇
本尊
阿弥陀如来
札所
洛陽阿弥陀四十八願寺 第12番
駐車場
無料駐車場あり
交通機関
地下鉄今出川駅徒歩10分
住所
京都府京都市上京区射場町579

概要

「鳴虎」の通称で知られる浄土宗の寺である。 室町時代中期までは天台兼学の寺院として一条高倉付近にあったが、後柏原天皇の勅旨で、1501年(文亀元年)、慶誉が中興し浄土宗寺院となった。 その後、豊臣秀吉の京都改造により、現在地の寺之内に移された。 水を飲む虎を緻密な筆致で描かれた明時代の寺宝「鳴虎図」は、秀吉が気に入り聚楽第に持ち帰ったところ、毎夜吠えて眠れず寺に返したという逸話がある。 客殿は黒田長政が最期を迎えた部屋で、長政と父 黒田官兵衛(如水)の位牌が祀られている。

見所

国重要文化財
梵鐘 - 平安時代後期の鋳造。管領 畠山持国が陣鐘に用い、梵字の銘が刻まれている。「撞かずの鐘」といわれ、西陣の織子と丁稚の悲話を伝える。
観光名所
客殿(本堂) - 1818年の再建。デジタル複製された鳴虎図、快慶作と伝わる本尊阿弥陀三尊像を安置。黒田長政が最期を迎えた部屋には、客殿本尊として阿弥陀如来坐像が安置され、長政と父 黒田官兵衛(如水)の位牌が祀られている。
百々川の石橋 - 門前を流れていた小川(こがわ)に架かる石橋。豊臣秀吉の侍尼 仁舜尼の寄進。擬宝珠に慶長七年(1602年)の銘がある。
庭園 - 客殿庭園は白砂の枯山水。
賓頭盧頗羅堕闍尊者 - 「びんずるさま」と称され、撫佛すると難病が除かれるといわれる。
稲荷社 - 稲荷大明神が祀られている。
墓地 - 豊臣秀吉の侍尼 仁舜尼、福山藩祖 阿部正勝の墓。

歴史

室町時代
一条高倉付近にあり、「一条之報恩寺」と呼ばれていた。
1501年
後柏原天皇の勅旨により、慶誉上人が中興し、浄土宗の寺院となった。
1585年
豊臣秀吉の京都改造により、現在地の寺之内に移された。
1623年
黒田長政が入洛して客殿を宿舎としたが、持病発作により死去した。
1730年
西陣焼けで類焼した。
1738年
本堂が再建された。
1788年
天明の大火で類焼した。
1818年
客殿が再建された。

撮影後記

 創建の由緒は不詳ですが、洛西の浄住寺を前身とするともいわれます。 梵鐘「撞かずの鐘」についての説明がスペースの都合できなかったので、簡単に此処で。 かつて朝夕に撞かれ、一帯の西陣織屋で仕事の始まりと終わりの合図にされていました。 寺近くの織屋には、15歳の丁稚と13歳の織女が働いていました。 ある日、夕刻の鐘の数をめぐり口論になり、織女は9つ、丁稚は8つと言い争います。 本来は煩悩の108の12/1の9つが毎夕刻に撞かれていたのですが、丁稚はこの日だけ寺男に8つ撞くことを頼みます。 夕方、鐘は8つしか鳴らず、織女は悔しさから鐘楼に帯をかけ首を吊ってしまいました。 以来、朝夕に鐘を撞くのも止め、「撞かずの鐘」といわれるようになりました。

更新履歴

2015年1月21日
初版をアップロードしました。

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