祇園新橋地区

国の重伝建地区

祇園甲部の重要伝統的建造物群保存地区。新橋通は町屋が軒を連ね、柳が影を落とす祇園白川の川面には鴨や鯉が遊び、舞妓・芸妓さんがそぞろ歩く。春はシダレザクラが咲き、古都らしい風情ある情景で人気がある。

祇園白川

祗園新橋について

基本情報

名称
祇園新橋(ぎおんしんばし)
別称
祇園白川(ぎおんしらかわ) - 白川沿いの区域。
指定
祗園新橋重要伝統的建造物群保存地区
駐車場
駐車場なし - 付近にコインパーキング多数あり。
交通機関
京阪祇園四条駅徒歩5分、祇園バス停徒歩5分
所在地
京都府京都市東山区
サイト
京都祇園縄手繁栄会

概要

江戸時代、祇園社の門前町として開け、幕末から明治初期にかけての質の高い町家が今も整然と並び歴史的風致を形成している祇園甲部の特別エリア。 国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。 新橋通と白川沿いの祇園白川に分かれ、分岐点に当たる巽橋のたもとに、辰巳大明神の祠がある。 商売繁盛とともに辰巳のタツに芸能上達の御利益を願い、舞妓さん芸妓さんが手を合わせる。 柳が影を落とす川面には鴨や鯉が遊び、舞妓芸妓がそぞろ歩き、春は枝垂れ桜が、秋は紅葉と京都らしい情景が残る。

見所

国重伝建地区
新橋通 - 本二階建町家茶屋様式の建造物が軒を連ねる。
祇園白川(白川南通) - 茶屋の裏側をみせる本二階建町家川端茶屋様式などの建造物が軒を連ねる。
辰巳大明神 - 御所より辰巳(南東)に位置する。芸上達の神として芸子舞妓さんなどに親しまれている。
かにかくに碑 - 祇園を愛した歌人 吉井勇がよく通ったお茶屋「大友(だいとも)」の跡に、勇が詠んだ一首の石碑がある。昭和30年、有志により建てられ、毎年11月8日、祇園甲部の芸舞妓によって白菊を手向け故人を偲ぶ「かにかくに祭」が行われる。

歴史

江戸時代初期
鴨川の築堤工事が完成し、祇園社(八坂神社)の門前町として祗園の町が開発された。
江戸時代中期
祗園外六町に続いて、祗園内六町の茶屋街として花街が開発され縄手通に芝居小屋や人形浄瑠璃の小屋が建ち並んだ。
1865年
祗園一帯が類焼。
幕末明治
芝居、芸能と結びついて繁栄した。
昭和20年
空爆の疎開対策により白川北側の町屋が除去され白川南通になった。
昭和51年
国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された。

撮影後記

 東大路通から花見小路通までの白川北通(なすありの道)も祇園白川ですが、観光の観点からの祇園白川と呼ばれるのは、巽橋の架かる白川南通になります。 つまり、祇園新橋の伝統的建造物保存地区のひとつ南のレンジなります。 ここに掲載しているのも上記の範囲になっています。
 ここで白川の流れを見てみましょう。 源流域は、比叡山の麓、滋賀県大津の山中町(白川山)になります。 その後、山中越を西流し、白河通に沿って南進、岡崎で琵琶湖疏水に合流します。 そして、国立近代美術館付近で疏水と分かれ、祇園へと流れます。 そして鴨川に合流することになります。 この最後の区間が祇園白川のレンジということです。
 ここで注目したいのは、明治23年に完成した琵琶湖疏水。 現在の白川の流れは、途中に琵琶湖疏水と共用する区間があり、本来の流れではありません。 白川の名前の由来は、その名の通り、源流域が花崗岩を含む礫質砂層で構成されて、川底が白砂が敷き詰められているようであるからと云われています。 江戸末期の祇園の最盛期には、白川砂が敷き詰められ、さらさらと流れていたのかもしれませんね。 ちなみに、古来の白川は三条通の北側を西進して鴨川に注いでいたそうです。

更新履歴

2011年8月29日
初版をアップロードしました。
2012年1月19日
「祇園白川」から「祇園新橋」に変更しました。
2012年1月19日
祇園新橋についてを加筆修正しました。
2012年1月20日
ギャラリーに作品を3点追加しました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年1月1日
一部の無料壁紙を会員限定の閲覧に制限しました。

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