峰定寺

修験道系山岳寺院

12世紀に鳥羽上皇の勅願により開創された修験道系の本山修験宗寺院。わが国最古の舞台造りの本堂は、仁王門から参道を15分ほど登った先、標高747mの大悲山南中腹に建つ。春はシャクナゲ、秋は紅葉が美しい。

峰定寺

峰定寺について

撮影後記

 この山寺は、花脊の奥、京都市街からバスで約1時間半の距離にあり「ぶじょうじ」と読みます。 花背は、大原より北に位置し、冬季は京北よりも豪雪地帯だと思います。 花の都を背にしているから「花背」だとか云われますが、都から見れば浮世離れした地で「離世」と洒落て書かれたりもします。
 山奥で僻地のイメージがしますが、摘草料理で有名な高級料理旅館の美山荘や、門前茶屋があり、小さな門前町のような雰囲気です。 初めて訪問したのは、まだ紅葉シーズンも終わったばかりの12月でしたが、旅館の人も今年はドカ雪がよく降るとおっしゃって、除雪作業に励んでいました。 なお、本堂までしか入山できず、雨天と冬期は石段が危険ということで入山自体が不可になります。 それと、仁王門から先は撮影禁止で、子供の立ち入りも禁止とされていますが、大声をださなければ、なにも言われないようです。

歴史・概要

本山修験宗の寺院。 山号は大悲山。 本尊は十一面千手観音像。 開基は観空西念である。 藤原信西が記した大悲山峰定寺縁起によれば、1154年、鳥羽上皇の勅願により修験者の観空西念が創建したもので、本堂や仁王門の造営には信西と平清盛が当たったという。 本尊千手観音坐像と脇侍の不動明王二童子像・毘沙門天像は、小像ながら都風の入念な作で、創建時の作と見なされている。 仁王門は、1350年の再建、本堂も同じ頃の再建と思われる。 近世には峰定寺は荒廃していたが、1676年、後西上皇の勅により、上皇の皇子である聖護院宮道祐親王が貴船成就院の元快に命じて、伽藍を再興した。 以後、峰定寺は聖護院末の本山修験宗の寺院となった。 わが国最古の舞台造りの本堂は、仁王門から参道を15分ほど登った先、標高747mの大悲山南中腹に建つ。 大悲山中には「鐘掛岩」「蟻の戸渡り」と称する行場が点在し、古くから修験道場であった。 修験の行場として知られる奈良県天川村の大峯山に対し、大悲山は「北大峯」とも呼ばれた。

住所: 京都府 京都市左京区花背原地町772

更新履歴

2010年9月17日
初版をアップロードしました。
2010年12月12日
ギャラリーに作品を5点追加しました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年1月1日
一部の無料壁紙を会員限定の閲覧に制限しました。

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