大原

天台宗寺院が集まる里

淀川水系高野川上流部の大原の里、高野川源流域の古知平町と小出石町、琵琶湖に注ぐ安曇川源流域の百井町、大見町、尾越町の3地域がある。天台宗系寺院が集まる大原の里は、洛北を代表する観光地となっている。

大原

大原について

基本情報

名称
大原(おおはら)
指定
歴史的風土特別保存地区(三千院地区、寂光院地区)、歴史的風土保存区域
駐車場
有料駐車場あり
交通機関
京都バス利用
所在地
京都府京都市左京区大原
サイト
京都大原観光保勝会

概要

もとの愛宕郡大原村で、賀茂川と合流する淀川水系高野川上流部の大原の里(大原八ヶ町)、高野川源流域の古知平町と小出石町、琵琶湖に注ぐ安曇川源流域の百井町、大見町、尾越町の3地域がある。 大原の里には三千院、勝林院、寂光院など多くの天台宗系寺院が建ち並び、洛北を代表する観光地となっている。 建礼門院や惟喬親王などの隠遁の地として知られている。 若狭と京都を結ぶ若狭街道の中継地として栄え、薪炭を頭に載せた女「大原女(おはらめ)」が、京都まで薪炭を売り歩いた。 現在ではシソや柴漬が特産品となっている。 古知平町と小出石町は、途中越(とちゅうごえ)で大津市と接し、「古知谷阿弥陀寺」と通称される浄土宗寺院が佇んでいる。 近江の文化も有す百井町、大見町、尾越町は、かつて「鞍馬炭」の産地で女は雪の峠を越えて鞍馬へと炭を運んだ。 戦後炭産業は衰退し、過疎集落として存続している。

見所

国登録文化財
大原茶屋(田中家住宅)- 木造平屋建、茅葺。江戸後期の建築で明治期に改造された。
宮内庁管理
後鳥羽天皇 大原陵 - 三千院北にある後鳥羽天皇の御陵。順徳天皇大原陵とともに、三千院歴代の法親王の御陵となっている。陵域に法華堂が建っている。
順徳天皇 大原陵 - 三千院北にある順徳天皇の御陵。父後鳥羽天皇の隣にある。承久の乱に敗れ配流されていた両天皇の遺骨が、三千院に梶井門跡としておられた後鳥羽天皇皇子 尊快法親王のもとにもたらされた。
建礼門院 大原西陵 - 寂光院の隣に建礼門院徳子の墓所がある。三千院北にある後鳥羽天皇と順德天皇の大原陵に対して、大原西陵と呼ばれる。鳥居の中に五輪塔がある珍しい仏教式御陵。
惟喬親王墓 - 文徳天皇皇子の惟喬親王の御墓。五輪塔と親王の御霊を祀る小野御霊神社がある。
歴史的風土地区
三千院 - 京都市の北東山中、大原の里にある天台宗の寺院。三千院門跡とも称す。秋の散り紅葉、冬の雪化粧が三千院にはよく似合う。なかでも苔に覆われた有清園の美しさは井上靖が「東洋の宝石箱」と称したほど美しい。
寂光院 - 天台宗尼院。建礼門院徳子が、平家滅亡後に隠棲した終焉の地である。「平家物語」で、後白河法皇が建礼門院のいる当院を訪ねた段は、物語のテーマである諸行無常を象徴する話として語り継がれてきた。
実光院 - 天台宗大原寺下院にあたる勝林院の塔頭。天台声明を伝承するために開かれた勝林院の僧院のひとつであった。律川の清流を取り入れた庭園は、客殿から眺める池泉観賞式庭園と池泉回遊式庭園があり、花暦が豊富である。
宝泉院 - 天台宗大原寺下院にあたる勝林院の塔頭。天台声明を伝承するために開かれた勝林院の僧院のひとつであった。額縁庭園「盤桓園」は、竹林の間より大原の里の風情を満喫でき、樹齢700年の五葉松が植えられている。
勝林院 - 天台宗大原寺下院にあたる。浄土宗祖法然が、この地で専修念仏について宗論を戦わせ、他派を論破した「大原問答」の遺跡。このとき阿弥陀仏の御手から光明を放ったとされ、本尊は「証拠の阿弥陀」と称される。
来迎院 - 天台宗大原寺上院にあたる。 平安時代初期、円仁が、日本音楽の源流といわれる声明の修練道場として創建したものである。その後、融通念仏の開祖である良忍が再興して、天台声明の根本道場として栄えた。
浄蓮華院 - 天台宗来迎院塔頭。1109年、融通念仏の開祖である良忍が来迎院とともに建立した。融通念仏の本堂で、良忍の住坊として使われた。宿坊となっており、夕食には山から取れる山菜を使った精進料理を頂ける。
出世稲荷神社 - 豊臣秀吉が聚楽第を造営するに際し邸内に稲荷神を勧請し、翌年の後陽成天皇聚楽第行幸の際、立身出世を遂げた秀吉に因み「出世稲荷」の号を下賜された。平成24年に京都市上京区より大原に遷座した。
阿波内侍の墓 - 建礼門院に仕えた女房阿波内侍らの墓といわれる五輪塔三基と宝筐印塔一基。
おぼろの清水 - 大原女の小路にある泉。建礼門院が寂光院にお入りになる際に、朧月の明かりでこの泉に姿を映されたと伝わる。
音無の滝 - 律川上流の滝。良忍が滝に向って声明を唱えると、声明の音律と融合し水音が消えたといわれる。
呂川(りょせん)と津川(りつせん) - 天台声明の呂曲と律曲にちなむ谷川。調子はずれ「呂律(ろれつ)がまわらない」の語源となっている。
乙が森 - 大原川上流の女郎ヶ淵に身を投げた女「おつう」が蛇身となって大原川を下り、この森で自分を捨てた若狭の領主を待ち伏せして、松田源太夫が退治して頭を埋めたと伝わる。
花尻の森 - 大原川上流の女郎ヶ淵に身を投げた女「おつう」が蛇身となって大原川を下り、この森で自分を捨てた若狭の領主を待ち伏せして、松田源太夫が退治してその尻尾を自邸に埋めたと伝わる。落ちツバキの名所。
阿弥陀寺 - 1609年創建の浄土宗寺院で、「古知谷阿弥陀寺」と通称される。本堂には開山上人の頭髪を植えた「植髪の尊像」と、阿弥陀如来坐像(重文)を安置している。参道には樹齢800年の古知谷カエデが立つ。
江文神社 - 大原八ヶ町の産土神。平安時代後期、背後の金比羅山に祀られていた神々を、山麓に御殿を創建して勧請したものと伝わる。「八朔祭」では、男は三度笠の道中姿で、女は大原女姿で伝統芸能「八朔踊」が奉納される。
観光名所
小出石町 - もとの愛宕郡大原村小出石。大原の里(大原八ヶ町)の北に位置し、途中越で大津市伊香立途中町と接し、滋賀県へと注ぐ安曇川流域の百井町とも接する。
百井町 - もとの愛宕郡大原村百井。琵琶湖へと注ぐ安曇川の源流域。標高741mの百井峠で鞍馬本町と隔てている。宿泊や研修施設である京都市百井青少年村がある。
大見町 - もとの愛宕郡大原村大見。昭和48年に集団離村し、以降40年間無住の集落となったが、大見新村プロジェクトとして高度過疎集落として存続している。滋賀県へと注ぐ安曇川の源流域で、近江文化圏の思子淵神社がある。
尾越町 - もとの愛宕郡大原村尾越。高度過疎集落として存続している京都の秘境の里。琵琶湖へと注ぐ安曇川の源流域で、近江の文化を有す。八丁平を越えて久多に至る山道はかつての鯖街道であった。

歴史

平安時代
大原の里には数多くの天台宗系寺院が建ち並び、百井、大見、尾越は荘園となっていた。
中世
薪炭の生産地で、「大原女」が京都まで薪炭を売り歩いた。
江戸時代
大原八ヶ村の大長瀬、来迎院、勝林院は梶井宮門跡の領地で、戸寺、上野、草生、野村、井出は中東氏の領地であった。
明治15年
大原八ヶ村が合併して大原村となった。
明治22年
町村制施行で、小出石村、百井村、大見村、尾越村を合わせて愛宕郡大原村となった。
昭和24年
愛宕郡大原村が京都市左京区に編入された。

撮影後記

 ここで紹介している大原とは、いわゆる「大原の里」と呼ばれる観光地だけでなく、北部山間部の百井地域も含みます。 同じ大原を冠称してはいますが、両地域はまったくの別物で、片や市内屈指の有名観光地、片や市内随一の僻地といった隔たりがあります。
 ただ、百井地域の作品をどこかに無くしてしまいました。 せっかく大雪の日に大見や尾越まで行って苦労して撮影したというのに。

更新履歴

2015年9月29日
初版をアップロードしました。

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