妙光寺

京都十刹

宇多野にある臨済宗建仁寺派の禅刹で、京都十刹八位の寺格を有した。1285年、花山院師継が心地覚心を請じて創建した。亀山、後醍醐、後村上の三朝勅願寺で南朝と縁深く、二度、三種の神器が奉安されたことがある。

妙光寺

妙光寺について

基本情報

山号寺号
正覚山妙光寺(しょうかくざんみょうこうじ)
宗派
臨済宗建仁寺派
寺格
京都十刹 第八位
創建
1285年(弘安八年)
開山
心地覚心(無本覚心) - 法燈国師。
開基
花山院師継
本尊
釈迦如来
駐車場
無料駐車場あり
交通機関
福王寺バス停徒歩5分
住所
京都府京都市右京区宇多野上ノ谷町20
サイト
妙光寺

概要

宇多野にある臨済宗建仁寺派の禅刹で、京都十刹第八位の寺格を有した。 1285年(弘安8年)、藤原北家 花山院師継が長子忠季の夭折を悼み、此の地に営んでいた山荘を花山院家の菩提寺として、心地覚心(無本覚心)を開山に請じて創建した。 寺号は忠季の法名に由来する。 入宋した心地覚心(法燈国師)は、味噌醤油の醸法をもたらしたことで知られ、尺八を愛好したとして普化宗の祖ともされる。 亀山、後醍醐、後村上の三朝勅願寺で南朝と縁深く、建武、嘉吉の二度、三種の神器が奉安されたことがあり興隆した。 幕末には勤王派の拠点となり、新撰組の焼き討ちにより焼失し、廃仏毀釈により無住となり荒廃したが、近年再興され、境内が市の史跡に指定された。

見所

国重要文化財
黄地花入菱花鳥文唐綾九条袈裟 - 法燈国師(心地覚心)の所用した袈裟。(京都国立博物館寄託)
市史跡
妙光寺境内 - 平成16年、開山堂や白砂が敷かれた枯山水の方丈庭園が再興された。本坊の中庭には高杉晋作が酒に酔って落ちたともいう井戸がある。墓地には陶工 野々村仁清が眠る。
市文化財
方丈(本堂) - 寛永年間(1624年~1645年)の再建。建武と嘉吉年間に、三種の神器が奉安されたことから、「神器の間」がある。

行事

毎月第3土曜
坐禅会

歴史

鎌倉時代
この地には花山院師継の山荘が営まれていた。
1285年
花山院師継が山荘を花山院家の菩提寺として、心地覚心を開山に請じて創建した。
鎌倉時代末
亀山天皇、後醍醐天皇の勅願寺となった。
1334~1336年
建武年間、後醍醐天皇が三種の神器と共に妙光寺に逃れた。
1386年
十刹に列格された。
南北朝時代
後村上天皇の勅願寺となった。
1441~1443年
嘉吉年間、三種の神器は妙光寺に奉安された。
応仁の乱
兵火によって荒廃した。
1639年
建仁寺の三江紹益が、豪商 打它公軌の寄進を得て再興した。
幕末
勤王派の拠点となり、新撰組の焼き討ちにより焼失した。
明治維新
廃仏毀釈により法堂などが移築され、無住となり荒廃した。
平成16年
方丈の枯山水庭園、開山堂などが再興された。

撮影後記

 最近、太平記を観ていて、この寺が登場したことから訪問してみました。 大覚寺統の勅願寺となり南朝と縁が深く、花山院師賢が南朝に奉じたことから、足利尊氏の北朝と対峙した後醍醐天皇が、三種の神器と共に妙光寺に逃れました。 また、現在建仁寺が所有する国宝「風神雷神図屏風」は、当初は当寺の所有でありました。 妙光寺再興の際に豪商 打陀公軌が、俵屋宗達に製作を依頼し、文政期に建仁寺に移されています。 さらに開山の無本覚心は、あの金山寺味噌を宋からもたらしたとかで、いろいろ興味深い由緒のある隠れた名刹ですね。

更新履歴

2015年2月26日
初版をアップロードしました。

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