淀城跡公園

淀藩稲葉氏の居城

伏見城廃城に伴い、徳川秀忠の命で松平定綱が淀藩へ入部して、1623年に淀城が築城された。その後、稲葉家祖 稲葉正知が城主となり、幕末まで稲葉氏の居城となった。現在、石垣を利用した淀城跡公園となっている。

淀城跡公園

淀城跡公園について

基本情報

名称
淀城跡公園(よどじょうせきこうえん)
別称
淀城跡
駐車場
有料駐車場あり
交通機関
京阪淀駅徒歩3分
所在地
京都府京都市伏見区淀本町

概要

淀城は、宇治川と桂川の合流付近の中州に位置し、山城国に入る要衝に築かれた江戸時代の城である。 1623年(元和9年)、伏見城廃城にともない、徳川秀忠の命で松平定綱が淀藩へ入部を命じられ、伏見城の廃材と二条城の天守を移築し築城された。 三川合流地の中州を干拓し、「淀三町」と呼ばれる城下町が形成され、城下町を貫通する形で京街道 (大坂街道) が設定された。 その後、稲葉家祖 稲葉正知が10代城主となり、幕末まで稲葉氏の居城となった。 廃藩置県で廃城となり、石垣と内堀のみが残され、現在は本丸跡には石垣を利用した淀城跡公園となっている。

見所

観光名所
天守台 - 二条城の天守が移築された5重5階の望楼型天守であった。昭和62年の発掘調査で礎石と石蔵が発見された。
櫓台跡 - 木幡山伏見城の廃城による代替として、幕府が松平定綱に命じて築かせた38基の櫓があった。
内堀 - 三川に囲まれた河中の城で、かつて淀城の西と北側には、約16mの大型水車が2基設けられ、淀城のシンボルであった。
稲葉神社 - 淀藩稲葉家祖 稲葉正成を祀る神社。明治18年、本丸跡に創建された。稲葉家は淀藩10代城主の正知以来、廃城する21代正邦までの148年間にわたり淀城城主に就いた。
唐人雁木旧跡碑 - 雁木は船着場の桟橋に作られた階段のことで、淀川を遡ってきた朝鮮通信使が上陸した。
田邊治之助君記念碑 - 鳥羽伏見の戦いで大手門を守っていた淀藩士治之助が、幕府軍の侵入の責をとって自刃したことを顕彰する碑。稲葉正縄の子である稲葉正凱によって、昭和12年に建立された。

歴史

1623年
伏見城廃城にともない、徳川秀忠の命で松平定綱が淀藩へ入部を命じられ、伏見城の廃材と二条城の天守を移築し築城された。
1723年
稲葉正知が10代城主となり、幕末まで稲葉氏の居城となった。
1756年
落雷により天守や大半の櫓を焼失した。
1868年
鳥羽伏見の戦いで、城内の一部と城下町が焼亡した。
明治4年
廃藩置県で廃城となり、石垣と内堀のみが残され、淀県庁が置かれた。
明治18年
本丸に稲葉正成を祀る稲葉神社が創建された。
明治43年
京阪電気鉄道(京阪本線)の軌道敷設工事に伴い、本丸南東部の遺構が破壊された。
昭和8年
旧京阪国道の開通により二の丸、西の丸の一部が道路用地となった。
昭和29年
稲葉家より淀町に城地が寄付され、外堀が埋められた。
昭和43年
淀城跡公園が開園した。

撮影後記

 京都競馬場で淀駅を利用する方も多いかと存じますが、競馬場と反対側にある淀城跡公園に足を運ぶ方は稀でしょう。 ここで紹介している淀城は、「新淀城」とも「徳川淀城」とも呼ばれる江戸時代初頭に築城された淀城です。 戦国時代に築城され、豊臣秀吉が茶々に産所として与えた「古淀城」は、北へ約500メートルの納所にある妙教寺付近にありました。 これにより茶々は、「淀殿」とか「淀君」と呼ばれるようになります。

更新履歴

2015年3月2日
初版をアップロードしました。

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