鴨川

納涼床

市街を南流する淀川水系河川で、高野川合流以南を「鴨川」と表記される。古来より暴れ川として知られ、昭和の鴨川水害を契機に河川改修事業で現在の姿になった。毎夏「鴨川納涼床」が軒を並べ、風物詩となっている。

鴨川

鴨川について

基本情報

名称
鴨川(かもがわ)
別称
東河
指定
京都市美観地区(鴨川美観地区)
交通機関
京阪電車 出町柳駅・神宮丸太町駅・三条駅・祇園四条駅・清水五条駅・七条駅等下車
所在地
京都府京都市

概要

淀川水系の一級河川で、一般的に高野川と合流する以北を「賀茂川」、以南を「鴨川」と表記される。 二条付近から琵琶湖疏水とも結ばれ、西側には江戸時代に高瀬川が開拓されて並流すしている。 古来より氾濫を繰り返すため、専制的な政治を行った白河法皇ですら、「鴨川の水、双六の賽、山法師」と意のままにならない「天下三大不如意」として譬えた暴れ川として知られる。 中世には河原が歓楽地となり、阿国歌舞伎の出雲阿国をはじめ多くの遊芸人が集い歌舞伎発祥の地ともなった。 桃山時代には豊臣秀吉の都市改造政策により、洛中東部境界として鴨川に沿って御土居が築かれ、江戸時代、鴨川と御土居との間に通りが設けられ、祗園と並ぶ花街「先斗町」の起源となった。 昭和の鴨川水害を契機に、大規模な河川改修事業が完成し、河道が掘り下げられ、川幅の拡幅された現在の姿になった。 毎年5月から9月の間、二条から五条にかけての鴨川西岸(みそそぎ川)に、90軒ほどの料亭「鴨川納涼床」が軒を並べ夏の風物詩となっている。

見所

観光名所
鴨川デルタ - 賀茂川と高野川の合流地点の三角州で、市民憩いの河川公園になっている。飛石を伝って川を渡ることができる。冬になるとユリカモメが飛来し風物詩となっている。
賀茂大橋 - 昭和8年に架けられた。かつては市電が通じ、今出川という小川が取水されていたが、市電の開通で暗渠化された。西詰には「大原口」の道標が立ち若狭街道の出入口にあたっていた。
荒神橋 - 1855年、御所の火災の後、聖護院仮皇居へ避難した孝明天皇が渡るためにはじめて架けられたといわれ「御幸橋」と称される。
三条大橋 - 東海道と中山道の起点終点。昭和25年の建立だが豊臣秀吉の命により架けられた木橋の面影を留める。勾欄には桃山時代の紫銅製の14個の擬宝珠(ぎぼし)で装飾されている。池田屋騒動で付いたとされる刀傷が見られる擬宝珠もある。付近に「弥次喜多の像」「高山彦九郎の土下座像」「駅伝発祥の碑」が建っている。
四条大橋 - 八坂神社の参詣道にあたり「祗園橋」とも称される。祇園祭では、橋上で八坂神社の神輿のうち中御座の神輿を鴨川の水で清める「神輿洗式」が行われる。東詰には阿国歌舞伎の名残を今に伝える南座があり、「歌舞伎発祥の地の碑」が立っている。
五条大橋 - 昭和34年に架けられた。本来の五条通と五条大橋は、北側の松原通と松原橋にあたる。付近に弁慶と牛若丸が闘う様子の「牛若丸弁慶像」が立っている。
七条大橋 - 市電事業に伴い大正2年に架けられ、鴨川に架かる橋では最も古い橋。
先斗町 - 祗園と並ぶ花街。1670年、鴨川と御土居との間に通りが設けられ茶店や旅籠などが置かれたのがはじまり。ほどなく芸妓などの遊女が居住するようになり、二条新地の出稼ぎ地として明治初期に花街として独立した。
先斗町歌舞練場 - 名物「鴨川をどり」が毎春に行われ、先斗町の芸妓が出演する。
鴨川納涼床 - 5月から9月の間、二条から五条にかけての鴨川西岸(みそそぎ川)に、90軒ほどの料亭が並ぶ夏の風物詩。河原に張り出した木組みの床が設けられ京料理を中心にした川床料理が楽しめる。
花の回廊 - 三条から七条にかけての鴨川東岸の散策路。シダレザクラやモミジが植樹され、俳句や短歌を詠んだ歌碑などが建っている。

歴史

奈良時代
鴨川上流域は賀茂氏の本拠地で、下流域には山背国に配置された秦氏が定住していた。
平安京遷都
都の東限となり「東河」とも呼ばれ、風水の四神相応の東の神「青龍」にあたった。
824年
氾濫を繰り返すため、治水を担当する官職の防鴨河使(ぼうかし)が設けられた。
平安時代後期
なお氾濫を繰り返すため、院政を布き専制的な政治を行った白河法皇ですら、「鴨川の水、双六の賽、山法師」と意のままにならない「天下三大不如意」として譬えた。
中世
河原が歓楽地となり、阿国歌舞伎の出雲阿国をはじめ多くの遊芸人が集った。
1228年
防鴨河使の為兼が、地蔵菩薩の霊告により四条橋の東北に地蔵尊を安置し、「雨止地蔵」と名付け仲源寺が創建された。
1591年
豊臣秀吉の都市改造政策により、洛中東部境界として鴨川に沿って御土居が築かれた。
1614年
角倉了以・素庵父子によって、二条と伏見港を結ぶ運河(高瀬川)が開削された。
1670年
今出川から五条の区間に寛文新堤が築かれ、鴨川と御土居との間に新河原町通(後の先斗町通)が設けられた。
明治28年
京都電気鉄道会社により、日本最初の営業用路面電車が開通し、市街路が拡幅され、鴨川にかかる、丸太町通、四条通、七条通の各大橋も、欧風の軌道併用橋に架け替えられた。
昭和10年
死者12名、三条大橋や五条大橋など15橋が流失する鴨川水害が発生した。
昭和22年
昭和の鴨川水害を契機にした大規模な河川改修事業が完成し、河道が掘り下げられ、川幅の拡幅された現在の姿になった。
昭和40年代
京友禅を鴨川の流れにさらし不要な糊を流す「友禅流し」が行なわれていたが、水質悪化が問題となり中止された。
昭和62年
交通渋滞緩和策とし、京阪線と琵琶湖疏水の地下化が完成した。

撮影後記

 雲ケ畑の桟敷ヶ岳を水源としている鴨川。 鴨川デルタで高野川と合流するまでの賀茂川は、「北山・賀茂川流域」カテゴリの方で扱うことにします。
 観光客は寺社の方へ流れますが、鴨川は市民の憩いの場所的色合いが濃く、「鴨川等間隔の法則」なるものがあります。 川岸に腰を下ろして語り合うカップルなどが、自然に等間隔になることだそうですが、よく考えると法則も何も、空いた電車の座席などでも見られる当たり前のことですよね。 大人しい学生が多い京都らしいといえば、大阪などより顕著なのかもしれませんが。
 あと、鴨川に架かる橋のことですが、二条、三条、四条とほぼ等間隔で架かっているのに、五条大橋だけ南に寄っていると思いませんか。 これは、現在の国道1号線が通る五条通は、平安京の五条大路ではないから。 かつて「五条橋通」と称されていた六条坊門小路を今の五条通としているからに他なりません。 ということは、弁慶が牛若丸に翻弄された逸話も、今の松原橋あたりということになるのでしょう。

更新履歴

2015年9月21日
初版をアップロードしました。
2015年10月9日
登録カテゴリを岡崎・吉田・川端から移動しました。

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