大應寺

非田院跡

9世紀初頭、貧民や孤児を救うべく壇林皇后によって建立された非田院跡で、1586年にその由緒ある遺跡を惜しんで創建された臨済宗相国寺派の寺である。1470年に後花園天皇が崩御され、その遺骸が火葬された地でもある。

大應寺

大應寺について

基本情報

山号寺号
金剛山大應寺(こんごうざんだいおうじ)
宗派
臨済宗相国寺派
創建
1586年(天正14年)
開山
虚應
開基
虚應
本尊
釈迦如来
駐車場
無料駐車場あり
交通機関
天神公園バス停すぐ
住所
京都府京都市上京区扇町722

概要

堀川通に面して建つ臨済宗相国寺派の寺である。 この地は9世紀初頭、貧民や孤児を救うべく壇林皇后によって建立された非田院跡で、1470年に後花園天皇が崩御され、その遺骸が火葬されたところでもある。 応仁の乱後、久しく荒廃していたが、1586年(天正14年)に虚應和尚が、その由緒ある遺跡を惜しんで、一字を建立したのが創建の由緒である。 度々火災に遭い、現在の堂宇は1808年(文化5年)以後の再建である。

見所

観光名所
本堂 - 本尊釈迦如来、脇侍に迦葉・阿難、後花園天皇の持仏という観世音菩薩を安置。
織部稲荷社 - 戦国大名で茶人の古田織部が祭祀した。

歴史

9世紀初頭
壇林皇后によって非田院が建立された。
1470年
後花園天皇が崩御され、その遺骸が火葬された。
応仁の乱
兵火で荒廃した。
1573年
織田信長の上京焼討ちで非田院が焼失した。
1586年
虚應が悲田院の由緒ある遺跡を惜しみ一字を建立して創建された。
1788年
天明の大火により焼失した。
1808年以降
現在の堂宇が再建された。

撮影後記

 泉涌寺の塔頭となっている悲田院の旧跡地で、「應」は「応」の旧字体で大応寺とも。 境内北側には後花園天皇の火葬塚もあります。
 門前に立っていた駒札によれば、1586年(天正14年)に由緒ある悲田院の遺跡を惜しんで創建されたと書かれていました。 江戸時代の1645年、悲田院は泉涌寺に移転し、その際に建立されたともいわれるそうです。 河原町御池にも悲田院跡があり、泉涌寺のウェブサイトでは、こちらを高槻城主・永井直清が1646年に現在地に移建したこととなっています。

更新履歴

2015年1月19日
初版をアップロードしました。

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