来迎院

大石内蔵助

真言宗泉涌寺の塔頭。弘法大師空海が開創したとされ、1218年に泉涌寺子院となり、後に泉涌寺の別当にもなった。赤穂退去後の大石内蔵助は、書院や茶室を建立し、そこで元赤穂藩同志と密議を重ねたといわれる。

泉涌寺来迎院

泉涌寺来迎院について

基本情報

山号寺号
明応山来迎院(みょうおうざんらいごういん)
別称
禁裏御菩提所泉涌寺別当、御寺別当
宗派
真言宗泉涌寺派
寺格
泉涌寺塔頭
創建
806年(大同元年)
開山
空海
本尊
阿弥陀如来
札所
京都泉山七福神 4番
駐車場
無料駐車場あり - 泉涌寺駐車場利用。
交通機関
泉涌寺道バス停徒歩10分
住所
京都府京都市東山区泉涌寺山内町33
サイト
御寺 泉涌寺

概要

真言宗泉涌寺の塔頭。 弘法大師空海が、唐で感得した荒神像を奉安して開創したとされる。 1218年、泉涌寺子院となり、後に泉涌寺の別当にもなった。 高所に建つ広幅殿荒神堂には、わが国最古の重文の木造荒神坐像(鎌倉時代作)が安置されている。 安産の神としても信仰され、古くは皇后宮の安産祈願所であった。 赤穂退去後の大石良雄(大石内蔵助)は、外戚にあたる来迎院長老を頼り檀家となり、書院や茶室を建立し、元赤穂藩同志と密議を重ねたといわれる。

見所

国重要文化財
木造荒神坐像 - 鎌倉時代の作。「胞衣荒神(ゆなこうじん)」と称され、安産の神としても信仰されている。
木造護法神立像 5躯 - (京都国立博物館寄託)
観光名所
本堂 - 霊元天皇の念持仏であった幻夢観音菩薩坐像や大石良雄の念持仏であった勝軍地蔵尊が安置されている。
広幅殿荒神堂 - 木造荒神坐像が安置されている。古くは皇后宮の安産祈願所であった。
書院 - 大石良雄の建立。
含翠庭(がんすいてい) - 大石良雄の作の池泉回遊式庭園。
含翠軒(がんすいけん) - 大石良雄が名水の湧くのを喜び建立した茶室。扁額「含翠」は自筆。討ち入りの密議を重ねたといわれる。
独鈷水(どっこすい) - 「泉涌寺三名水」のひとつ。弘法大師が掘り当てたといわれる。

歴史

806年
空海が、唐で感得した荒神像を奉安して開創したとされる。
1218年
藤原信房が泉涌寺第4世 月翁智鏡(がっとうちきょうに帰依して伽藍を整え、泉涌寺子院とした。
応仁の乱
兵火により消失。
1574年
舜甫明韶が、織田信長より50石を授かり中興。
1597年
前田利家により諸堂が再建された。
江戸時代
徳川家から援助を得て復興を果たした。大荒神が安産の守護神として信仰され、朝廷の安産の勅願所となり、菩提寺である泉涌寺の別当にもなった。
1701年
赤穂退去後の大石良雄は、外戚にあたる来迎院長老を頼り檀家となり、書院や茶室を建立。元赤穂藩同志と密議を重ねたといわれる。

撮影後記

 泉涌寺本坊北側の深山幽谷の地に、ひっそりと隠れるように伽藍を構えています。 忠臣蔵の大石内蔵助が討ち入り前に身を寄せていたことで、大石良雄の肖像や大石良雄遺愛の茶釜など赤穂義士に関する遺品が寺宝として残されています。 赤穂城明け渡しの後、山科の岩屋寺の場所に隠棲したことになっていますが、実際には来迎院で多くの時間を過ごしたそうです。 山科の浪居から京の同士たちと密議を交わすために、茶会の名目で隠居したのでしょう。

更新履歴

2013年6月20日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年3月23日
登録カテゴリを洛南から移動しました。

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