大徳寺

洛北随一の巨刹

臨済宗大徳寺派大本山で、1315年頃に宗峰妙超が開創した洛北随一の巨刹である。一休宗純が中興し、秀吉をはじめ戦国武将の塔頭建立が相次ぎ寺運は栄えた。茶の湯文化とも縁深く、村田珠光や千利休が関係をもった。

大徳寺

大徳寺について

基本情報

山号寺号
龍寶山大徳寺(りゅうほうざんだいとくじ)
別称
大徳禅寺
宗派
臨済宗大徳寺派
寺格
大本山
創建
1326年(正中三年) - 開創は1315年(正和四年)頃。
開山
宗峰妙超(大燈国師)
本尊
釈迦如来
駐車場
有料駐車場あり
交通機関
大徳寺前バス停徒歩5分
住所
京都府京都市北区紫野大徳寺町53

概要

紫野にある臨済宗大徳寺派大本山で、茶の湯文化とも縁が深い禅刹である。 夢窓疎石と共に禅林の双璧と讃えられる宗峰妙超(大燈国師)が、1315年(正和四年)頃に小庵を結んだのが起源である。 洛北随一の巨刹で、三門、仏殿、法堂、方丈が一直線上に並ぶ禅宗伽藍の周囲に塔頭20有余の甍が連なる。 持明院統の花園上皇と大覚寺統の後醍醐天皇の帰依を受け高い寺格に位置づけられたが、足利政権が成立すると、後醍醐天皇と関係の深い大徳寺は軽んぜられ、京都五山から自ら離脱して在野の禅寺「林下」の道をとった。 応仁の乱で荒廃したが、一休宗純が住持となり堺の豪商らの帰依を得て中興した。 侘び茶を創始した村田珠光が一休和尚に参禅して以来、千利休や小堀遠州などの茶人が大徳寺と関係をもった。 桃山時代に豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営むと、それを契機に戦国武将の塔頭建立が相次ぎ、現在の伽藍がほぼ整えられた。

見所

国宝
方丈及び玄関 - 1635年の再建。豪商後藤益勝の寄進による。前後2列左右4列の計8室をもつ特異な方丈形式で、向かって右2列目の前後2室は、宗峰妙超の塔所(開山堂)となっている。障壁画83面は狩野探幽の筆。
唐門 - 聚楽第の遺構で、西本願寺と豊国神社の唐門とともに「国宝三唐門」のひとつ。かつて明智光秀が寄進した銀を元手に建築された明智門があったが、明治19年に南禅寺金地院に売却したことにより、勅使門の西にあった唐門が方丈前に移された。
絹本墨画淡彩観音猿鶴図 3幅 - 南宋時代の牧谿(もっけい)筆。「観音図」の左右に「猿図」「鶴図」を配する三幅対で、夏、秋、春を表している。足利義満の東山御物に含まれ、駿河国今川氏の太原雪斎によって寄進された。
絹本著色大燈国師画像 - 建武元年(1334年)の自賛。椅子に座り手に警策を持つ宗峰妙超の頂相。
虚堂智愚墨蹟達磨忌拈香語 - 南宋時代の墨跡。虚堂智愚(宗峰妙超の師である南浦紹明の師である中国僧)が達磨忌に際して記した香語。
後醍醐天皇宸翰御置文 - 元弘3年(1333年)の後醍醐天皇の宸翰。
国特別名勝
方丈庭園 - 東庭は江戸時代初期の小堀遠州の作庭。白砂に石と刈込が横に一列に配された枯山水。南庭は1636年の169世天佑紹杲の作庭という。峡谷・涸滝・遊漁を意味する石組、海を表す白砂などで構成されている枯山水。
国史跡
船岡山 - 大徳寺と建勲神社が所有している。標高112メートルで、風致地区舟岡山公園として整備されている。平安京の北の基点となり、真南が大極殿、朱雀大路となった。保元の乱で、源為義一族がここで処刑された。応仁の乱では、山名教之や一色義直らが船岡山城を建築し陣を敷き、後に船岡山一帯は「西陣」と呼ばれるに至る。
国重要文化財
法堂 附廊下 - 一休宗純再建の仏殿と兼用されていたため、1636年に小田原城主稲葉正勝の遺志により子の稲葉正則が建立。天井の雲龍図は狩野探幽35歳の筆で、手を叩くと共鳴する「鳴き龍」。
仏殿 附明月橋 - 1665年に京の豪商 那波常有の寄進により再建された。徳川家綱寄進の本尊釈迦如来坐像が安置されている。海北友松の障壁画、狩野元信の雲龍図がある。
山門(三門) - 1529年、連歌師 宗長の寄進で下層が竣工し、1589年に千利休が上層を完成させ「金毛閣」と名付けた。釈迦三尊、十二羅漢、千利休木像が安置され、長谷川等伯筆による上半身が天女で下半身が鳥の迦陵頻迦像が描かれている。
勅使門 - 慶長年間(1596年~1614年)建築の御所の陽明門が後水尾天皇により下賜され、1640年に移築したもの。
庫裏 - 文明年間(1469年~1487年)淡路屋寿源により再建。寛永年間(1624年~1644年)旧方丈の古材により修復された。
鐘楼 - 梵鐘は天正11年(1583年)の鐘銘。
侍真寮 - 室町時代後期の建築。旧御所局。
経蔵 - 1636年、那波宗旦により建立。
浴室 - 1622年、灰屋紹益により再建。
廊下 - 方丈玄関から寝堂間。1636年頃の建築。
寝堂 - 1636年頃の建築。
方丈障壁画 83面 - 狩野探幽の筆。「山水図」「禅会図」「竜虎図」「梅柳禽鳥図」「陰士図」「猿曳図」「芦雁図」「山水図」など。
木造大燈国師坐像 - 方丈内部の開山堂雲門庵に安置。南北朝時代のもの。
絹本墨画竜虎図 2幅 - 牧谿の筆。
絹本墨画竜虎図 2幅 - 伝牧谿の筆。
絹本著色楊柳観音像
絹本著色後醍醐天皇御像
絹本著色十王像
絹本著色大燈国師像
絹本著色運庵和尚像 - 南宋嘉定十一年(1218年)の自賛。
絹本著色虚堂和尚像 - 南宋咸淳(1265年)改元の自賛。
絹本著色大應国師像 - 正応(1288年)改元の自賛。
紙本淡彩楊岐和尚像 - 文清の筆、養叟の賛。
紙本淡彩養叟和尚像 - 文清の筆。
絹本著色長生比丘尼像 - 文安六年(1449年)養叟の賛。
紙本著色仏涅槃図 - 狩野松栄の筆。
紙本墨書仏説教誡経 - 近衞家熙の筆。
花園天皇大燈国師御問答書 2幅 - 狩野直信の筆。
紙本墨書大燈国師自筆書状 3幅 - 其後何条云々、路次無殊事云々、綸旨無相違云々の3幅。
大燈国師自筆置文 3幅 - 法衣所伝語建武四年、元亨四年、元徳三年の3幅。
紙本墨書中納言奉書並高家庄絵図
紙本墨書徹翁和尚筆七ヶ条制法 - 建武四年(1337年)。
大徳寺諸庄園文書目録 - 貞和五年(1349年)
紙本墨書法華経 8巻 - 常子内親王の筆。
紺紙墨書法華経 8巻 - 近衞家熈の筆。
紙本墨書大燈国師自筆法語 - 解夏小参語。
紙本墨書大蔵経 2018冊
宗峰妙超墨蹟 - 大燈国師の筆。遺偈 建武丁丑臘月日、投機偈 南浦紹明加印証語。
虚堂智愚墨蹟 - 尺牘。
景徳伝燈録 10冊 - 宗峰妙超(大燈国師)32歳の筆。禅の指針という中国の書籍を書写したもの。
徹翁義亨墨蹟 - 言外号。
花園天皇宸翰御置文 - 建武四年(1337年)興禅大燈国師宛。
鳳凰沈金経箱
紙本墨画芙蓉図 - 伝牧谿の筆。
大徳寺文書 4267通
絹本著色五百羅漢像 82幅 - 林庭珪・周季常等筆。元は100幅で、10幅がボストン美術館、2幅がフリーア美術館に分蔵されている。(京都・奈良国立博物館分割寄託)
紙本墨画柏鷹芦鷺図 六曲屏 - 曽我二直庵筆。(京都国立博物館寄託)
府文化財
大徳寺伝法衣類 - 元、明、室町、江戸の法衣類。
市天然記念物
イブキ - 仏殿南庭にあるイブキ(ビャクシン)の巨木。仏殿が再建された寛文5年(1665年)に植えられたものといわれ、樹齢は350年ほどと推定される。
観光名所
総門 - 大徳寺通(旧大宮通)に面する。
南門 - 北大路通に面する。
梶井門 - 通称「開けずの門」。天台座主在京時の梶井御所の門で、応仁の乱以前は大徳寺南に梶井御所があった。
堀割 - 境内東にある堀川の名残という溝。北西の尺八池より流れ出る若狭川と、北東の賀茂川から南下した川が大徳寺で合流して堀割を南へ流れ堀川になった。
別院 - 龍翔寺、徳禅寺。
塔頭 - 龍源院、高桐院、大仙院、瑞峯院、芳春院、興臨院、聚光院、総見院、真珠庵、黄梅院、孤篷庵、龍光院、玉林院、大光院、正受院、三玄院、大慈院、雲林院、養徳院、如意庵、松源院、龍泉庵、来光寺。

行事

1月1日~3日
仏殿祈祷大般若会(修正会) - 大般若経の転読。
1月10日
臨済忌 - 臨済宗宗祖 臨済義玄禅師の忌日。報恩謝徳の法要。
1月17日
百丈忌 - 百丈懐海禅師の忌日。報恩謝徳の法要。
2月15日
涅槃会 - 釈迦入滅の日。壇の中央に涅槃図が掛けられる。
4月8日
仏誕生会 - 釈迦誕生を祝う花祭り。
5月15日
善月祈祷大般若会
6月18日
懺法会
8月15日
山門施餓鬼会
10月5日
達磨忌 - 禅宗始祖 達磨大師の忌日。壇の中央に達磨像が安置される。
10月第2日曜
曝涼 - 寺宝の虫干し(風通し)及び本坊方丈での一般公開。
11月21~22日
開山忌 - 大燈国師宗峰妙超の忌日。
12月8日
仏成道会 - 釈迦が悟りを開いた日。
12月31日
除夜諷経・除夜の鐘

歴史

1315年頃
宗峰妙超が甥の赤松則村(円心)の帰依を受け紫野に「大徳庵」を結んだ。
1324年
後醍醐天皇より土地を寄進され、伽藍の建設が始まった。
1325年
禁裏で正中の宗論を論破した宗峰妙超が、持明院統の花園上皇と大覚寺統の後醍醐天皇の帰依を受け、高い寺格に位置づけられた。
1326年
宗峰妙超が「龍宝山大徳寺」と号し、公式な開山となった。
1334年
後醍醐天皇は京都五山第一の南禅寺の上刹とし、寺域が拡大された。
1341年
足利政権が成立すると、後醍醐天皇と関係の深い大徳寺は軽んぜられ、京都五山から除外された。
1386年
五山十刹の制の十刹第9位に落とされた。
1431年
京都五山から自ら離脱し、在野の禅寺「林下」の道をとった。
1453年
火災で焼失した。
応仁の乱
山名教之や一色義直らが船岡山城を建築し陣を敷き、兵火で伽藍が灰燼に帰した。
1474年
後土御門天皇の綸旨により、一休宗純が住持となった。
1478年
一休宗純が焼失した伽藍を堺の豪商らの帰依を得て再建し中興した。
1509年
妙心寺が独立本山となり、大徳寺派より離脱した。
1582年
豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営んだ。
1585年
豊臣秀吉が大茶湯を催した。
1629年
紫衣事件で幕府に反抗した沢庵宗彭らの高僧が出羽国や陸奥国への流罪となった。
1641年
徳川家光が沢庵に帰依し、幕府との関係も回復した。

撮影後記

 大燈国師の高弟が妙心寺開祖の関山慧玄で、妙心寺のお兄さん的な京都の巨刹です。 国師は播磨国守護赤松氏の家臣である浦上氏の子として生まれ、11歳で姫路の書写山圓教寺に入り、鎌倉の高峰顕日(夢窓疎石の師匠)や南浦紹明(鎌倉建長寺開山蘭渓道隆の弟子)に参禅しました。 後醍醐天皇と関係が深かったため、室町幕府による京都五山(別格南禅寺、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺)からは自ら離脱しています。 修行を第一とする禅風を挙揚した在野の寺「林下」の代表的禅刹であります。

更新履歴

2015年10月26日
初版をアップロードしました。

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