総見院

織田信長の菩提寺

臨済宗大徳寺の塔頭で、豊臣秀吉が建立した織田信長の菩提寺である。明治時代まで、大徳寺管長の住まいであったため「隠寮」とも呼ばれていた。本堂には織田信長坐像が安置され、境内には織田家供養塔が立つ。

大徳寺総見院

大徳寺総見院について

基本情報

院号
総見院(そうけんいん)
宗派
臨済宗大徳寺派
寺格
大徳寺塔頭
創建
1583年(天正11年)
開山
古渓宗陳(こけいそうちん)
開基
豊臣秀吉
本尊
織田信長坐像
駐車場
有料駐車場あり - 大徳寺駐車場利用。
交通機関
大徳寺前バス停下車
住所
京都府京都市北区紫野大徳寺町59

概要

臨済宗大徳寺の塔頭で、織田信長の菩提寺である。 本能寺の変の100日後、大徳寺において織田政権の覇権争いの舞台として大葬礼が執り行われ、その後、織田信長の一周忌に間に合うように豊臣秀吉が建立した。 明治時代まで、大徳寺管長の住まいであったため「隠寮」とも呼ばれていた。 本堂には、重文の木造織田信長坐像が安置され、境内には信長をはじめとする織田家供養塔が立つ。

見所

国重要文化財
木造織田信長坐像 - 仏師康清の1583年作。廃仏毀釈を避けるために大徳寺に避難し、昭和36年の織田信長380年忌に、大徳寺から御輿に乗せられ当本堂に戻された。織田信長の木像はもう一躰作られ、天正10年の大徳寺での葬儀のときに使われ、本能寺の灰とともに火葬されたといわれる。
市天然記念物
胡蝶佗助(こちょうわびすけ) - 豊臣秀吉が、千利休から譲り受けて植えたものといわれ、樹齢は400年余り。「豊公遺愛のわびすけ」の碑が立つ。
観光名所
本堂 - 内陣に本尊の織田信長坐像が安置され、織田信長や織田家一族の位牌が祀られている。
鐘楼 - 信長家臣の寄進による梵鐘が架けられている。
茶室 ほう庵 - 表千家 而妙斉の筆による扁額がかかる。
茶室 寿安席 - 大正時代初期の建立。
茶室 香雲軒 - 表千家の即中斎好み。
織田家供養塔 - 織田信長をはじめ、信忠、信雄、徳姫、秀勝、信高、信好、秀雄、信貞、お鍋、高重、養華院などの墓。
井戸 - 加藤清正が、朝鮮から持ち帰ったとされる朝鮮石で彫りぬかれた掘抜き井戸。
親子塀 - 創建当時の土塀といわれる。塀の中に塀がある珍しい二重構造の塀。

歴史

1582年
明智光秀が、本能寺の織田信長を奇襲し、信長は自刃した(本能寺の変)。阿弥陀寺の開山 玉誉清玉上人が、自刃した信長信忠父子の骨灰を密かに集め祀り、その後、光秀の陣を訪ね、本能寺で討死した者と二条城で自刃した織田信忠などの供養と100名以上の遺体を収容した。
1583年
豊臣秀吉は、清玉上人に、自身が喪主となり一周忌法要を行なうことを命じたが、清玉上人は辞退した。そこで、法事料として朱印や寺領を与えるとしたが固辞した。秀吉は、大徳寺に総見院を建て、大葬礼を7日間盛大に執り行い、阿弥陀寺での法事を禁じた。喪主は信長の遺児で、秀吉養子の秀勝が務めた。
同年
豊臣秀吉により、千利休の禅の師でもある古渓宗陳を開山に迎え創建した。
明治元年
廃仏毀釈により堂塔や寺宝が灰燼と化し、大徳寺の修禅専門道場及び管長の住居となっていた。
大正時代
再興した。

撮影後記

 大徳寺境内北側にある塔頭のひとつです。 通常は非公開塔頭ですが、よく特別公開されています。 織田信長ゆかりの寺院ということで、結構な人気です。 大徳寺の他の塔頭のように素敵な庭や石庭があるわけでもないので、歴史好きな方向けの塔頭かもしれません。
 上京京極の寺町通に阿弥陀寺という、こちらも信長の菩提寺があるのですが、秀吉と当時の阿弥陀寺住職との間に一悶着あったことは有名な話です。 ここで歴史を紐解きませんが、総見院は秀吉が信長亡き後の覇権争いの過程で成立したともいえるかもしれません。 そういった意味では、信長よりも、開基もさることながら、秀吉とゆかりのある寺院で、「大徳寺大茶会」では、当寺方丈で秀吉が茶を立てた記録も残っています。

更新履歴

2012年2月14日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年3月23日
登録カテゴリを西陣・室町・紫野から移動しました。

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