本満寺

日蓮宗由緒寺院

寺町通に面する日蓮宗の本山(由緒寺院)である。1410年、日秀上人が新町今出川の近衛邸に創建した。日重上人、日乾上人、日遠上人ら日蓮宗受布施派の高僧を輩出している。尼子十勇士の筆頭 山中鹿之介の墓がある。

本満寺

本満寺について

基本情報

山号寺号
広布山本満寺(こうふざんほんまんじ)
宗派
日蓮宗
寺格
本山(由緒寺院)
創建
1410年(応永十七年)
開山
日持(勧請開山)
開基
日秀(創建開山)
本尊
十界曼荼羅
札所
洛中法華21ヶ寺、洛陽十二支妙見めぐり 丑
駐車場
無料駐車場あり - 寺務所に連絡が必要。
交通機関
河原町今出川バス停徒歩5分
住所
京都府京都市上京区鶴山町16

概要

寺町通に面して伽藍を構える日蓮宗の本山(由緒寺院)である。 1410年(応永17年)、本圀寺5世 日伝上人の弟子であった日秀上人が、父親の関白 近衛道嗣を弔って、本圀寺より分立して新町今出川の近衛道嗣の邸内に創建したのが由緒である。 「廣宣流布山 本願満足寺」と号し、近衛殿内道場として興隆した。 その後、天文法華の乱により他の法華宗の寺院と共に堺に避難した。 1539年(天文8年)、他の本山に先駆けて帰洛し、関白 近衛尚通の援助で現在地に再建され、後奈良天皇の勅願寺となったと伝わる。 7世日重上人(身延山20世)、8世日乾上人(身延山21世)、9世日遠上人(身延山22世)ら日蓮宗受布施派の高僧を輩出している。 墓地には尼子十勇士の筆頭 山中鹿之介の墓がある。

見所

国重要文化財
紺紙金字一字宝塔法華経並観普賢経 9巻 - 平安時代の作。(京都国立博物館寄託)
観光名所
本堂 - 昭和2年の再建。扁額「廣布山」は日蓮遺文からの写し。
妙見堂 - 昭和2年の再建。洛陽十二支妙見めぐりの丑(北北東)。「出町の妙見宮」と称され、能勢妙見と同体とされる。
七面堂 - 14世日遠が七面山で千日修行を修して感得したという七面大明神が祀られている。
墓地 - 尼子氏家臣 山中幸盛(山中鹿之介)、画家 西村五雲の墓がある。
塔頭 - 法泉院、一乗院、実泉院、守玄院。

歴史

1410年
本圀寺の日伝弟子であった日秀が、本圀寺より分立して新町今出川に創建した。
1536年
天文法華の乱で焼失し、堺に避難した。
1539年
寺伝によれば、関白 近衛尚通の援助で現在地に再建され、後奈良天皇の勅願寺となったという。
1661年
焼失した。
1708年
宝永の大火により焼失した。
1751年
日鳳が将軍 徳川吉宗の病気平癒を祈願し、幕府祈願所となった。
1788年
天明の大火により焼失した。
明治44年
本堂を焼失した。
昭和2年
本堂が再建された。

撮影後記

 寺町寺院ですが、寺伝によれば、1539年(天文8年)に関白 近衛尚通の援助で現在地に再建されことになっています。 ただし他の寺院と同じく、豊臣秀吉の都市改造によって強制移転されたという説もあるようです。 同志社大学新町キャンパスの南側には、元本満寺町という地名が残っています。 山科言継の日記「言継卿記」の記載によれば、1545年に「近衛殿近所」に存在しており、新町キャンパスの辺りの町名が近衛殿町ですから、寺伝に矛盾することになります。

更新履歴

2015年3月7日
初版をアップロードしました。

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