正伝永源院

織田有楽斎

鎌倉時代創建の臨済宗建仁寺の塔頭で、明治の廃仏毀釈で、正伝院が永源庵の名を受け継ぎ「正伝永源院」と改めた。中興の祖は織田有楽斎で、境内には有楽斎が旧正伝院に建立した茶室「如庵」の写しが復元されている。

正伝永源院

正伝永源院について

基本情報

寺号
正伝永源院(しょうでんえいげんいん)
宗派
臨済宗建仁寺派
寺格
建仁寺塔頭
創建
正伝院: 1264年~1275年(文永年間)
開山
正伝院: 義翁紹仁 - 建仁寺12世。
中興の祖
織田有楽斎 - 織田信長の弟。
本尊
釈迦如来
駐車場
有料駐車場あり - 建仁寺駐車場利用。
交通機関
南座バス停徒歩5分、京阪祇園四条駅徒歩5分
住所
京都府京都市東山区小松町586
サイト
正伝永源院

概要

元は正伝院と永源庵の二ヶ寺であり、いずれも臨済宗大本山建仁寺の塔頭であったが、明治維新の動乱で永源庵が廃寺となるため、正伝院は「永源」の名を受けつぎ「正伝永源院」と改め、永源庵の地へ移した。 正伝院は文永年間(1264年~1275年)、大覚禅師の法嗣である建仁寺12世 義翁紹仁が、祇園花見小路四条下ルに創建された。 一方、永源庵は正平年間(1346年~1370年)に建仁寺39世の法嗣である無涯仁浩が、清水坂鷲峯下に創建し、その後に現在地に移った。 天文法華の乱で荒廃したが、織田信長の弟 織田有楽斎により正伝院が再興され、中興の祖となっている。 境内には有楽斎が旧正伝院に建立した茶室 国宝「如庵」が写しとして復元され、有樂斎一族らの墓も正伝院旧地から現在地に移されている。

見所

観光名所
方丈 - 「正伝院」と「永源庵」の扁額が並ぶ。「室中の間」に狩野山楽筆の襖絵「蓮鷺図」。仏間に織田有楽斎木像が安置。
茶室如庵 - 平成8年、織田有楽斎が旧正伝院に建立した茶室 国宝「如庵」が写しとして復元された。「有楽囲い」「有楽窓」など有楽斎好みの特徴。
墓地 - 織田有楽斎、織田長好(織田頼長の長男)、福島正則と父 福島正信、細川頼春(守護大名)、細川頼有(守護大名)らの墓。

歴史

1264~1275年
文永年間、大覚禅師の法嗣である建仁寺12世 義翁紹仁が、祇園花見小路四条下ルに「正伝院」を創建した。
1346~1370年
正平年間、建仁寺39世の法嗣である無涯仁浩が、清水坂鷲峯下に「永源庵」を創建した。
1372年
永源庵が建仁寺塔頭に列した。
1398年
永源庵が現在地に移った。
1532~1555年
天文法華の乱で正伝院が荒廃した。
1618年
織田信長の弟 織田有楽斎により正伝院が再興され、隠居所と茶室「如庵」が造営された。
1622年
織田有楽斎の没後、隠居所が正伝院に寄進された。
明治維新
廃仏毀釈で永源庵は無住となり、正伝院は寺号のみを残して旧永源庵の現在地に移った。
明治6年
永源庵が廃寺となるため、正伝院は永源庵と合併し「正伝永源院」と改め、茶室「如庵」は祇園町有志に払い下げられた。
明治42年
正伝院旧地の伽藍は売却され、茶室「如庵」は東京に移された。
昭和37年
織田有樂斎一族らの墓が、正伝院旧地から現在地に移された。

撮影後記

 国宝茶席三名席のひとつ「如庵」があったことで知られる建仁寺本坊の北隣にある塔頭です。 常時公開されている塔頭ではありませんが、しだれ桜やツツジが咲く頃や秋の紅葉時期などに、特別公開されています。 人気観光地にしては、意外に穴場だったりします。
 現在、国宝「如庵」は、愛知県犬山市の有楽苑に移築されて展示されていますが、もとは織田有楽斎によって正伝院旧地に建てられたものです。

更新履歴

2015年2月7日
初版をアップロードしました。

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