修学院

上高野・修学院・一乗寺

もと愛宕郡上高野村、修学院村、一乗寺村の地域。平安時代には比叡山の宿坊が数多く建立されたが、園城寺との対立により灰燼に帰した。楠正成軍が足利尊氏軍と対陣し、江戸時代には広大な修学院離宮が造営された。

修学院

修学院について

基本情報

名称
修学院(しゅうがくいん)
指定
歴史的風土特別保存地区(修学院260h・上高野62h)、歴史的風土保存区域(上高野271h)
住所
京都府京都市左京区 上高野・修学院・山端・一乗寺

概要

比叡山西麓から高野川に挟まれた地域で、もと愛宕郡修学院村(上高野村、修学院村、一乗寺村)であった。 天台宗五門跡のひとつ曼殊院門跡、文人石川丈山の詩仙堂などの名刹が閑寂の静境のなかに佇み、後水尾天皇が造営した広大な修学院離宮が立地する。 平安時代には西坂本といわれ、比叡山の宿坊が数多く建立されたが、延暦寺と園城寺の対立により一乗寺などの多くの天台宗寺院が灰燼に帰した。 南北朝時代、楠正成軍が足利尊氏軍と対陣し、江戸時代には禁裏御料地となり広大な修学院離宮が造営された。 宮本武蔵が吉岡一門数十人と一乗寺下り松で決闘をしたと伝えられるのもこの地域である。 昭和6年、修学院村が京都市左京区に編入され、上高野、修学院、山端、一乗寺を冠称する4地区に再編された。

見所

観光名所
曼殊院 - 天台宗五門跡のひとつに数えられる曼殊院門跡は、洛北屈指の名刹である。蓬莱式枯山水庭園は国の名勝、数々の意匠が施された書院は重文に指定されている。明治維新まで歴代門主が北野天満宮の別当職を歴任した。
詩仙堂 - もとは、文人石川丈山が隠居のため造営した山荘。丈山59歳の時に造営され、90歳で没するまでこの庵で詩歌三昧の隠遁を送った。現在は曹洞宗の禅刹でもあり丈山寺という。春のサツキと秋の紅葉が特に美しい。
圓光寺 - 一乗寺にある臨済宗南禅寺派の寺で、1601年に徳川家康が足利学校学頭であった閑室元佶を招いて、当初は伏見に創建された。家康寄進の木活字を用い、学問所として書物の出版が行われた。十牛の庭は紅葉の美観を呈す。
赤山禅院 - 天台宗寺院で比叡山延暦寺の塔頭である。京都御所から鬼門(東北)に当たるため、方除け、厄除けの祈願所として御所を守護し、人々から「表鬼門の赤山さん」と呼ばれ信仰を集めてきた。また、紅葉の名所でもある。
崇道神社 - 上高野の産土神。平安時代貞観年間、早良親王(崇道天皇)の霊を鎮めるために創建された御霊社がはじまりとされる。裏山にある小野妹子の子 毛人の墓からは、江戸時代に銅製墓誌が発掘され、国宝指定されている。
金福寺 - 一乗寺にある臨済宗南禅寺派の古刹。松尾芭蕉が当庵に滞在し、後に、芭蕉を敬慕する与謝蕪村が、その芭蕉庵を再興した。境内には蕪村の墓をはじめ、近世俳人の墓、多くの句碑もあり、「俳諧の聖地」とも称される。
三宅八幡宮 - 子供の疳の虫封じの御利益で知られ、子供の守り神「虫八幡」と呼ばれ親しまれている。社伝によれば、小野妹子が、無事に遣隋使の使命を果たした報恩の意味を込め、この地に宇佐八幡宮を勧請したのが起源と伝わる。
禅華院 - 「解脱山」と称す修学院にある臨済宗大徳寺派の禅寺。比叡山三千坊のひとつで、江戸寛永年間、大徳寺170世清巌宗謂が中興した。修学院離宮から下賜された鐘楼門形式の山門や、鎌倉時代の石仏が多数奉安されている。
狸谷山不動院 - 一乗寺の狸谷にあり、「狸谷のお不動さん」で知られる真言宗系修験道の単立寺院。1715年、十穀を絶つ木食行を修した明厚法師の開創による。瓜生山にある森林伽藍で、懸崖造りの本殿からは京都市街を望める。
鷺森神社 - 貞観年間に創建されたと伝わる修学院、山端一帯の産土神。神使の鷺が、杜に群集していたのが社名の由来とされる。例祭「さんよれ祭」では、菅笠に紅たすきの着物姿の少年が、扇子を片手に氏子区域を練り歩く。
三明院 - 上高野にある真言宗醍醐派の寺院である。明治36年、紀三井寺住職であった佐竹信光が、山形県から故郷の上高野に移し創建された。現在の本堂は昭和13年の再建。多宝塔からは上高野の町並みを一望することができる。
修学院離宮 - 比叡山山麓にある54万平方メートルに及ぶ江戸時代初期の代表的山荘で、宮内庁皇室用財産となっている。後水尾天皇は、幕府の朝廷圧迫政策を不満として突然に譲位し、洛北に隠居の地を求め、自ら作庭したと伝わる。
八大神社 - 一乗寺の産土神で、1294年に御霊社として創建されたといわれる。宮本武蔵は、吉岡一門との「一乗寺下り松の決闘」前に当社で勝運祈願したと伝わる。境内には、決闘を見守ったといわれる一乗寺下り松を安置する。
本願寺北山別院 - 浄土真宗本願寺派(西本願寺)の一乗寺にある別院である。もと比叡山三千坊のひとつで、親鸞が青蓮院から比叡山へ登る際に修学をしたとも伝わることから「御里坊」と称され、宗祖親鸞聖人の宗史蹟となっている。
瑠璃光院 - 無量寿山光明寺の京都本坊である。昭和初頭、当時の京都電灯創業者が、数寄屋造りと中庭付きの別荘を造営した。近年、それを大洞龍明氏が購入し寺院風に改修した。書院から眺める瑠璃の庭の紅葉は見事である。
林丘寺 - 修学院離宮の中御茶屋に隣接する臨済宗系の単立寺院。1680年、後水尾上皇が崩御されると内親王は出家して、山荘(現在の修学院離宮中御茶屋の楽只軒)を寺に改め林丘寺と号した。
野仏庵 - 宗教法人悟心会の寺院。京ゆどうふの老舗「順正」の創立者である上田堪庵により設立された。東山を借景とした閑寂の静境のなかに、陶庵席をはじめとする茶席とその鋪設が佇む。
ガーデンミュージアム比叡 - 比叡山上に2001年にオープンした屋外型庭園美術施設である。フランス印象派画家たちの名画45点を陶板で再現し、その絵画をモチーフに作庭されている。6つに分かれた庭園には、四季折々の花々が咲き乱れ美しい。
京都薬用植物園 - 武田薬品工業が運営している。薬用植物を中心に約2,800種の植物を保有・栽培し、「生きた薬草の博物館」といわれる。希少な薬用植物の保護保全の観点から、特別見学会時のみ人数限定で一般公開される。
一乗寺下り松 - 近江から京に通じる街道辻で、旅人の目印として植え継がれてきた松が立っている。現在の松は4代目にあたる。宮本武蔵が吉岡一門数十人と松の下で決闘をしたと伝えられる。
鷲尾家雑掌宅跡 - 元禄年間より雑掌として鷲尾家に仕えていた田辺家。鷲尾家は比叡山への道筋(雲母坂)にあったところから、番所を兼ねることもあった。鷲尾家に伝わる諸古文書を多数保有している。
西圓寺 - ※西圓寺紀行アップ時に記載します。
蓮華寺 - ※蓮華寺紀行アップ時に記載します。
栖賢寺 - ※栖賢寺紀行アップ時に記載します。
宝幢寺 - ※宝幢寺紀行アップ時に記載します。
御蔭神社 - ※御蔭神社紀行アップ時に記載します。

行事

5月5日
一乗寺八大神社の剣鉾差し - 八大神社例祭(神幸祭)で、神輿渡御の先導に鉾が出される。「菊鉾」「柏鉾」「龍鉾」の3基が伝承されている。(市登録無形民俗文化財)
8月19日
上高野念仏供養踊 - 宝幢寺境内で踊られる盆踊り。住職が回向を行い、口上役の合図と共に踊りが始まる。踊り手は浴衣に三幅前垂、赤の襷、白足袋、赤緒草履という姿に団扇を持ち、施餓鬼台を中心にして踊る。(市登録無形民俗文化財)
8月27日
修学院大日踊・紅葉音頭 - 修学院離宮前で踊られる念仏踊り。松明をつけて提灯の前に列座し、三方に盃を載せて給仕から酒を受けて乾杯する。その後、踊り手が団扇を手に切子灯籠を吊るした屋台の周りで踊る。(市登録無形民俗文化財)
8月31日
一乗寺鉄扇 - 八大神社境内において、「八朔踊」や「豊年踊」の名で踊られる盆踊り。楽器を用いず、「(何々)え」と、「え」を句尾とした口説き調の音頭。(市登録無形民俗文化財)

歴史

奈良時代
愛宕郡出雲郷と小野郷に属した。
平安時代
西坂本といわれ、比叡山の宿坊が数多く建立された。
1121年
延暦寺と園城寺の対立により一乗寺が焼かれた。
1336年
楠正成軍が足利尊氏軍と対陣し、雲母坂を守っていた千穂忠顕軍が全員戦死した。
江戸時代
禁裏御料地となり修学院離宮が造営された。
明治22年
町村制施行で、修学院村、一乗寺村、高野村が統合され修学院村が発足した。
昭和6年
愛宕郡修学院村が京都市左京区に編入され、上高野、修学院、山端、一乗寺を冠称する4地区に再編された。
昭和10年
高野川大洪水で被災し、大改修が行われ現在の姿となった。
昭和42
白川通が開通した。

撮影後記

 このエリアは名刹や有名な離宮がてんこ盛りなのですが、ラーメンの名店が集まっていることも見逃せません。 最近では「京都ラーメン」がご当地ラーメンとして認知されてきましたね。 とりわけ東大路通は別名「ラーメン街道」とも呼ばれ、本店が立地して京都ラーメンの激戦区となっています。 御存知「天下一品」をはじめ、最近全国展開中の「ラーメン魁力屋」、こじんまりした老舗の「天天有」、名物牛スジラーメンの「中華そば 高安」、ドロドロ鶏白湯スープの「麺屋 極鶏」などが暖簾を掲げています。 一乗寺界隈ではありませんが、私的には「たかばしラーメン」が食べ飽きない味で好きなんですけどね。

更新履歴

2015年10月7日
初版をアップロードしました。

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