落柿舎

向井去来

嵯峨野にある俳人 向井去来の閑居跡である。江戸時代、庭に柿の木40本あり、その柿の実が一夜のうちに殆どおちつくしたのが号の由来という。松尾芭蕉も晩年に三度訪れて、庵にて「嵯峨日記」を草したことで知られる。

落柿舎

落柿舎について

基本情報

庵号
落柿舎(らくししゃ)
結庵
1689年(元禄二年)
開庵
向井去来
駐車場
駐車場なし
交通機関
嵯峨小学校前バス停徒歩10分
住所
京都府京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町20
サイト
落柿舎

概要

嵯峨野にある蕉門十哲の一人として知られる俳人 向井去来の閑居跡である。 去来の「落柿舎記」によれば、庭に柿の木40本あり、その柿の実が一夜のうちに殆どおちつくしたのが号の由来という。 松尾芭蕉も晩年に三度訪れて、庵にて「嵯峨日記」を草した。   庭には去来の 「柿主や梢は近きあらし山」や、「嵯峨日記」最尾の句「五月雨や色紙へぎたる壁の跡」 の句碑などが立っている。

見所

観光名所
本庵 - 現在の草庵は、明治28年に弘源寺の捨庵を移築し再建されたもの。去来の「落柿舎記」によれば、庭に柿の木40本あり、その柿の実が一夜のうちに殆どおちつくしたのが号の由来という。入口に庵主の在庵を示す蓑と笠がかけてあり、今は象徴として常にかかっている。
向井去来の碑 - 「柿主や梢は近きあらし山」 1772年、二世庵主井上重厚が建立。洛中一古いとされる句碑。
松尾芭蕉の碑 - 「五月雨や色紙へぎたる壁の跡」 芭蕉が落柿舎に滞在していた間に著された「嵯峨日記」最尾の句。
高浜虚子の碑 - 「凡そ天下に去来ほどの小さき墓に詣りけり」虚子最期の自筆句碑で、昭和34年建立。
その他の碑 - 昭憲皇太后(明治天皇皇后)、工藤芝蘭子(11世庵主) 、平澤興(医学者・京都大学16代総長)、保田與重郎(13世庵主)、山鹿栢年(8世庵主)、西行法師などの句碑。
向井去来の墓 - 北へ百メートルの弘源寺墓地内にある遺髪塚。自然石に「去来」とのみ刻まれている。真如堂に墓がある。
西行井戸趾 - 裏手に西行が利用したといわれる井戸趾があり、西行庵の趾であったともいわれる。
釋瓢齋(しゃくひょうさい)供養塔 - 庵の昭和復興に尽力した十世庵主の供養塔。
句会席 - 事前申し込みで利用できる。
投句箱 - 入選句は、季刊誌「落柿舎」に掲載される。

歴史

1658年
向井去来が長崎から京都に移り住んだ。
1685年
向井去来が嵯峨野に別宅の大屋敷を構えた。
1689年
松尾芭蕉が「おくのほそ道」の旅に出発し、去来は秋頃から庵を「落柿舎」と称した。12月24日、芭蕉は去来と落柿舎で鉢叩きを聞いた。
1691年
芭蕉が落柿舎に半月ほど滞在し、「嵯峨日記」を草した。
1694年
芭蕉が落柿舎を訪れ、「落柿舎制札」はこの頃に書かれた。
1699年
去来が「旅寝論」を書き終えた。
1702年
去来が芭蕉俳諧の真髄を伝える「去来抄」に着手。
1704年
去来が聖護院近くの寓居にて病没し、真如堂に葬られた。
1770年
京都の俳人 井上重厚が、現在の地に再建した。
明治28年
現在の庵が再建された。
平成21年
修復工事が行われ、江戸時代末のくぎやカンナの跡が見つかった。
平成24年
京都府より公益財団法人に認定された。

撮影後記

 二尊院から常寂光寺に向かう途中にある小庵で、庵の周辺は嵯峨野らしい景観で大好きです。 ただ、定番観光ルートのため観光客は多めですが。
 現在の草庵は、去来が没して半世紀後に京都の俳人 井上重厚が再建した地で、去来の草庵の遺構ではありません。 重厚は場所が分からず、「柿ぬしや梢は近きあらし山」の句にちなみ、現在の地を選んだということ。 拾遺都名所図会に「小倉山下、緋の社のうしろ山本町」とあり、庵の西隣にある有智子内親王墓が緋の社であったとも、または臨川寺の辺りや天龍寺の北側ともいわれるようです。

更新履歴

2012年8月4日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年1月1日
一部の無料壁紙を会員限定の閲覧に制限しました。

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