平等院

鳳凰堂

宇治を流れる宇治川左岸にある単立寺院で、世界遺産に登録されている。末法元年の1052年、藤原頼通によって創建された。国宝鳳凰堂には、定朝の遺作である国宝阿弥陀如来像が安祀され、西方極楽浄土を具現している。

平等院

平等院について

基本情報

山号寺号
朝日山平等院(あさひざんびょうどういん)
宗派
単立(無宗派)
創建
1052年(永承七年)
開山
明尊
開基
藤原頼通
本尊
阿弥陀如来
駐車場
有料駐車場あり - 土産物屋やコインパーキング等。
交通機関
JR宇治駅徒歩10分、京阪宇治駅徒歩10分
住所
京都府宇治市宇治蓮華116
サイト
平等院

概要

宇治市を流れる宇治川の左岸にある寺院で、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。 世に「末法思想」が流布していた末法元年の1052年、藤原頼通は、父の藤原道長の宇治殿を寺院に改め、極楽往生を願い創建された。 翌年、西方極楽浄土の教主とされる阿弥陀如来を本尊とする阿弥陀堂が建立された。 この阿弥陀堂は、上空から見ると翼を広げた鳳凰に似て、屋根に鳳凰像をのせていることから、「鳳凰堂(国宝)」と称され、十円硬貨や一万円紙幣の図柄に採用されていることは名高い。 安祀されている国宝阿弥陀如来坐像は、平安時代中期の仏師定朝の確証ある唯一の寄木造の遺作で、西方極楽浄土の西岸(彼岸)の阿弥陀像を拝するよう、浄土式庭園の池東岸からも本尊の面相が拝せる。 藤原文化の粋を集めた国宝をはじめとする寺宝も数多く、CG再現なども駆使したミュージアム鳳翔館に展示されている。 平等院の管理は、浄土宗浄土院と天台宗最勝院の塔頭寺院が共同で行い、特定の宗派に属さない単立寺院となっている。

見所

国宝
鳳凰堂 - 1053年の建立で、阿弥陀如来坐像を安置する阿弥陀堂。中堂、左右の翼廊、尾廊が翼を広げた鳳凰に似て、中堂両端の屋根に鳳凰像をのせていることから、「鳳凰堂」と称されてきた。十円硬貨や一万円紙幣の図柄に採用されている。
金銅鳳凰 - 鳳凰堂中堂旧棟飾で、ミュージアム鳳翔館に収蔵されている。現在の屋根上にある鳳凰はレプリカ。
鳳凰堂中堂壁扉画 14面 - 平安時代後期から鎌倉時代の観無量寿経に基づく九品来迎図と日想観図が描かれた絵画遺品。剥落が激しく、江戸時代末期の落書きも目立つ。堂正面と側面の扉はミュージアム鳳翔館に収蔵されている。
木造天蓋 - 阿弥陀如来像の頭上に吊られた透かし彫りの天蓋。
木造阿弥陀如来坐像 - 平安時代中期の仏師定朝の確証ある唯一の寄木造の遺作。西方極楽浄土の東岸(此岸)から、西岸(彼岸)の阿弥陀像を拝するよう、浄土式庭園の池東岸からも本尊の面相が拝せる。
木造雲中供養菩薩像 52躯 - 鳳凰堂中堂の長押上の壁に、飛雲に乗り阿弥陀如来と共に来迎する楽しげな姿をあらわした菩薩像。半数の26体はミュージアム鳳翔館に収蔵されている。
梵鐘 - 鳳凰堂と同時期の鋳造。「音の三井寺」、「銘の神護寺」、「姿、形の平等院」と謳われ、「天下の三名鐘」のひとつ。鐘楼にはレプリカが吊るされ、ミュージアム鳳翔館に収蔵されている。
国重要文化財
観音堂(釣殿) - 鎌倉時代の建立。創建時ここに本堂が建ち、宇治川に面した釣殿へと続き、舟が漕ぎ着けられたといわれる。
木造十一面観音立像 - 観音堂本尊。平安時代後期の作。脇侍に、平安時代後期作の地蔵菩薩立像と不動明王像が安置されている。
国史跡名勝
平等院庭園 - 末法思想に基づく藤原時代の代表的な浄土式庭園。創建当初は宇治川の蛇行を利用して中央に中島を築き、ここに鳳凰堂が建てられていた。平成11年、阿字池岸が小石敷きの洲浜に復元された。
市文化財
木造地蔵菩薩立像 - 平安時代後期の作。
木造不動明王立像及二童子像 - 平安時代後期の作。
観光名所
表門 - 江戸時代初期、塔頭の浄土院の門として伏見城より移建され、昭和32年に現在地に移築された。
扇の芝 - 以仁王の令旨を奉じ平家討伐のために挙兵した源頼政が、宇治での戦いに敗れ、観音堂の北側で軍扇を敷き辞世の和歌を残し自刃したと伝わる。墓地は塔頭の最勝院にある。
藤棚 - 藤原氏の代表紋とされる樹齢250年の古藤。
平等院ミュージアム鳳翔館 - 国宝展示をはじめ、CG再現なども駆使した国の登録博物館。庭園の景観に配慮し、大半が地下構造となっている。平成13年、宝物館に代わりにオープンした。
塔頭 - 平等院の管理は、隣接する浄土宗の浄土院と天台宗寺門派聖護院末の最勝院が共同で管理している。

行事

3月2日
関白忌 - 開基の関白 藤原頼通を偲ぶ忌日法要。
5月26日
頼政忌 - 辞世の句「埋もれ木の 花咲くこともなかりしに 身のなる果 てぞ 悲しかりける」を残し境内で自刃した源頼政を供養する。

歴史

9世紀
この地には、光源氏のモデルとされる源融が営んだ別荘があり、陽成天皇の離宮となった。
998年
離宮が宇多天皇に渡り、孫の源重信を経て、藤原道長が譲り受け、別荘「宇治殿」となった。
1027年
藤原道長が逝去し、宇治殿は子の藤原頼道に引き継がれた。
1052年
「末法思想」の元年、藤原頼通は、天台宗寺門派園城寺の明尊を開山として宇治殿を寺院に改め、大日如来を本尊とする「平等院」を創建した。
1053年
阿弥陀堂(鳳凰堂)が建立され、京都から運ばれた阿弥陀如来像が安置された。
平安時代後期
藤原氏の氏寺となり、法華堂(1056年建立)、多宝塔(1061年建立)、五大堂(1066年建立)、不動堂(1073年建立)などが次々に建立され伽藍が整えられた。
1074年
藤原頼道が平等院で逝去した。
1180年
以仁王の令旨を奉じ平家討伐のために挙兵した源頼政が、宇治での戦いに敗れ、平等院で自刃した。
1184年
源義経と源義仲が宇治川東岸で戦った。(梶原景季と佐々木高綱の宇治川の先陣争い)
1221年
承久の乱では、宇治川西岸に北条泰時が、東岸に後鳥羽上皇軍が陣を敷き、境内には幕府の陣が敷かれた。
南北朝時代
楠木正成と足利の軍勢の戦いをはじめ、度重なる災害により阿弥陀堂以外が焼失荒廃した。
室町時代
天台宗寺門派の円満院が管理していた。
1486年
山城国一揆の国人たちの評定が平等院で行われ、畠山政長と畠山義就軍の撤退などを要求した。
1492~1501年
明応年間、浄土宗の栄久上人が、平等院修復のために浄土院を開創した。
1582年
天台宗円満院による兼務が断絶。
桃山・江戸初期
宇治在郷の茶師を中心に維持がされ、真言宗が護持した。管理をめぐり真言宗と浄土宗の対立が続いた。
1654年
平等院に天台宗の最勝院が創建され、天台宗と浄土宗の勢力争いが続いた。
1681年
寺社奉行の裁定により、平等院が浄土・天台両宗の共同管理となった。
江戸時代後期
茶師が衰亡し管理が放置され、参詣者による阿弥陀堂への落書きなど野放し状態となった。
明治維新
廃仏毀釈により文化財は海外流出し、三門は売買された。
昭和29年
本尊胎内より創建時の鳳凰の羽の尾羽片が発見された。
平成6年
「古都京都の文化財」として、ユネスコの世界文化遺産に登録された。

撮影後記

 傍から見ている身分なので、好き勝手なこと書きます。 現在、平等院鳳凰堂の屋根葺き替えと塗装の塗り直しのため、仮設素屋根が組まれて完全に覆われてしまっています。(平成26年3月末までの予定) 画像を見る限り、その辺の工事現場のようで、清水寺の子安塔の修理のように、もうちょっとセンスのある覆いにした方がいいんじゃないといった感じです。 おまけに、宇治の二大観光名所と云ってもいい宇治上神社の檜皮葺屋根の葺き替えが今年あり、観光客の減少は避けられそうもない様子です。 周辺の商店は大打撃なんじゃないかと。 市の観光協会の方で日程の調整交渉するなり、もう少し計画的にやったらいいのにと思うのですが。

更新履歴

2013年2月21日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年1月1日
一部の無料壁紙を会員限定の閲覧に制限しました。

平等院紀行のコメント

コメント欄

はじめまして。いつも美しい画像に感動しながら拝見させていただいております。

金沢区の称名寺とは比較にならないくらいの美しさ・規模ですね。私は生粋の県民なので、もちろん鎌倉びいきなのですが、今の鎌倉と、奈良・京都との格差には、コンプレックスを感じています(笑)

永福寺跡の整備、伽藍なしとはいえ、これくらいの美しさを期待します。

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