宝積寺

宝寺

天王山中腹に建つ真言宗智山派の古刹。聖武天皇が竜神から授けられた打出と小槌を祀ることから「宝寺」と呼ばれる。「山崎の戦い」では、秀吉軍の本陣が置かれた。数多くの重要文化財を所蔵している寺でもある。

宝積寺

宝積寺について

基本情報

山号寺号
天王山宝積寺(てんのうざんほうしゃくじ)
別称
宝寺(たからでら)、大黒天宝寺
宗派
真言宗智山派
創建
伝 724年(神亀元年)
開基
伝 行基
本尊
十一面観音
駐車場
無料駐車場あり
交通機関
山崎駅徒歩10分、大山崎駅徒歩15分
住所
京都府乙訓郡大山崎町大山崎銭原1

概要

天王山中腹に建つ真言宗智山派の古刹。 寺伝によれば、奈良時代、聖武天皇の勅命を受けた行基により開かれたと伝わる。 聖武天皇が夢枕で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」を祀ることから「宝寺」(たからでら)と呼ばれる。 また、「天下分け目の天王山」で知られる「山崎の戦い」では、秀吉軍の本陣が置かれたといわれる。 境内は重文の三重塔や数多くの文化財を収蔵する。 閻魔堂に安置された閻魔王と脇待の司命・司録の木造坐像は美術的評価が高い。 春の桜、秋の紅葉が美しい寺院でもある。

見所

国重要文化財
三重塔 - 桃山時代の創建。羽柴秀吉が山崎の合戦での戦勝記念に一晩で建てたといわれ「一夜の塔」とも称される。
木造十一面観世音菩薩立像 - 1233年作の本尊。「橋架観音」と称される。毘沙門天立像と千手観音菩薩立像の脇侍を従う。
木造閻魔王坐像 - 鎌倉時代の作。閻魔堂に安置。天王山西麓の島本町にあった西観音寺のものが、廃仏毀釈で廃寺になったため移された。
木造司命坐像 - 同上。
木造司録坐像- 同上。
木造倶生神半跏像- 同上。
木造闇黒童子半跏像- 同上。
木造金剛力士立像 2躰 - 阿形と吽形。
板絵着色神像 - (京都国立博物館寄託)
町文化財
毘沙門天立像 - 本尊脇侍。
千手観音菩薩立像 - 本尊脇侍。
石造五重塔 - 鎌倉時代に五重塔として建てられ、その後、九重に積み上げられた聖武天皇の供養塔。
観光名所
本堂 - 1606年の改築。
閻魔堂 - 重文の木造閻魔王坐像などが安置。
仁王門 - 重文の木造金剛力士像が安置。
小槌宮 - 大黒天と「打出」「小槌」が祀られている。京都六大黒の一つ。
梵鐘 - 室町時代作。「待宵の鐘」と称される。

歴史

724年
聖武天皇が、夢枕に現われた竜神から「打出」と「小槌」を授かり、祈願をすると天皇に即位できたことから、「打出」と「小槌」を祀るために、勅願により行基が建立し、本堂に十一面観音菩薩を安置した。
725年
行基が、淀川対岸の橋本へ「山崎橋」を架けた。
731年
行基が、山崎橋の守護と布教のために「山崎院」を建立した。
995年~999年
長徳年間、衰退していた当寺を、寂昭(じゃくしょう)が中興し、天台宗に改宗。その後、真言宗になった。
1232年
火災により焼失。
1582年
天王山で豊臣秀吉と明智光秀の「山崎の合戦」が起こり、秀吉軍の本陣が置かれた。
1864年
蛤御門の変(禁門の変)で、尊皇攘夷派の真木和泉守ら十七烈士らの陣地が置かれた。

撮影後記

 アサヒビール大山崎山荘美術館の西隣、すぐ西側は大阪府との府境になります。 山崎聖天とも程近く、歩いて行くことができます。 車で行く場合は、一部離合困難な急坂がありますので注意してください。 駐車場は、石材屋さんの敷地に停めさせてもらいました。
 撮影した日は、鉛色のカーテンに覆われたような薄暗い日。 秀吉の三重塔を青空で撮影したかったものですね。 次回は、さくら咲く春うららかな日に、撮ってみたいものです。

更新履歴

2012年2月12日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年1月1日
一部の無料壁紙を会員限定の閲覧に制限しました。

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