智積院

真言宗智山派総本山

末寺およそ3,000を持つ真言宗智山派の総本山。紀州根来山の大伝法院と、豊臣秀吉ゆかりの祥雲寺に由来する。長谷川等伯一門による「桜図」「楓図」などの国宝障壁画、国の名勝である池泉廻遊式庭園が知られている。

智積院

智積院について

撮影後記

 毎年、初詣の人出で話題になる千葉の成田山新勝寺や神奈川の川崎大師平間寺などが属する智山派の総本山になります。 末寺は全国に三千もあるそうです。 ちなみに、智積院(ちしゃくいん)と云います。
 一部拝観料が必要なエリアもありますが、広い境内は自由で開放的です。 また、スケッチなどをしている方も多く、大らかで好きな寺院です。(京都や鎌倉などの寺院はスケッチや三脚使用などの禁止が多い。)
 境内は、長谷川等伯の「桜図」「楓図」や「松に梅図」などの国宝障壁画を所蔵しているためか、境内はサクラ・カエデ・マツなどが目につきます。 ギャラリーに掲載したように春の桜と秋の紅葉は見事なので、三十三間堂や国立博物館を観光コースに入れている場合、立ち寄ってみるといいと思いますよ。

概要・歴史

山号を五百佛山(いおぶさん)とする真言宗智山派総本山。 開基は玄宥僧正(げんゆう)、本尊は大日如来、寺号は根来寺。 真言宗十八本山7番、近畿三十六不動尊20番、京都十三仏霊場1番である。 紀州にあった大伝法院塔頭の智積院と、豊臣秀吉が3歳で早世した長子・鶴松の菩提を弔うために建てた祥雲寺に由来する。 1130年、真言宗の覚鑁(かくばん)が、高野山に「大伝法院」を創建した。 1140年、覚鑁は、教義上の対立から高野山を去り、大伝法院を紀州の根来山に移して新義真言宗を立宗した。 南北朝時代、大伝法院の塔頭として智積院を建立し、根来山内の学問所となった。 その後、根来山は二千もの堂宇が建つ一大勢力となり、1585年の「根来攻め」で豊臣秀吉と対立し全山焼失。 智積院住職の玄宥(げんゆう)は、前もって弟子と共に高野山に逃れ、新義真言宗の法灯を維持するため再興を志す。 1591年、豊臣秀吉が3歳で早逝した鶴松を供養するため、妙心寺の南化玄興を招いて「祥雲寺」を建立した。 1601年、徳川家康が玄宥に豊国神社の付属寺院の土地建物を与え、智積院はここに復興した。 豊臣氏が滅びると、隣接していた祥雲寺の堂宇、障壁画、豊国神社の堂舎などを受けついだ。 江戸時代、末寺の学生僧の教学専門学寮として繁栄し、幕末には、学寮が土佐藩屯所になった。 明治33年、智積院を中心に活動していた全国三千の寺院が、智積院を総本山と定めた。 昭和50年、金堂が建て替えられた。 平成7年、講堂が再建された。 江戸初期を代表する池泉廻遊式庭園は国の名勝で、中国の廬山を形どったといわれる。 国宝文化財として、長谷川等伯・久蔵父子の大書院障壁画25面(草花図・桜楓図・松に梅図・松に黄蜀葵及び菊図)などがある。

京住所: 京都府 京都市東山区東大路通七条下ル東瓦町964

更新履歴

2011年9月17日
初版をアップロードしました。
2011年11月7日
登録カテゴリを洛東から祇園・東山に移動しました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。

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