即宗院

西郷隆盛

臨済宗東福寺の塔頭。1387年、島津氏久が薩摩藩の菩提寺として建立した。庭園は、藤原兼実の山荘「月輪殿」の跡で、市の名勝に指定されている。境内奥の採薪亭跡は、西郷隆盛が身を潜め幕府転覆の策をめぐらした。

東福寺即宗院

東福寺即宗院について

基本情報

山号寺号
臥雲山即宗院(がうんざんそくしゅういん)
宗派
臨済宗東福寺派
寺格
東福寺塔頭
創建
1387年(元中四年 / 嘉慶元年)
開山
剛中玄柔(ごうじゅうげんじゅ) - 東福寺第54世。
開基
島津氏久 - 島津氏第6代。
本尊
釈迦如来
駐車場
東福寺寺務所前駐車、東福寺駐車場利用 - 紅葉期間駐車場なし。
交通機関
東福寺駅徒歩10分、東福寺バス停徒歩10分
住所
京都府京都市東山区本町15丁目813
サイト
即宗院

概要

臨済宗東福寺の塔頭。 1387年、薩摩藩6代 島津氏久が、東福寺第54世 剛中玄柔を開山として建立し、薩摩藩の菩提寺とした。 庭園は、関白 藤原兼実が晩年営んだ山荘「月輪殿」の跡で、京都市の名勝に指定されている。 境内奥の採薪亭(さいしんてい)跡は、西郷隆盛と清水寺の月照が、新撰組や幕府の追っ手を逃れ、この茶亭に身を潜め、王政復古を志し幕府転覆の策をめぐらした地である。 桜田門外の変から鳥羽伏見の戦いを経て維新を成し遂げた。 西郷隆盛は倒幕後、この地での鳥羽伏見の戦いで戦死した薩摩群の霊を供養するため、半年滞在して斎戒沐浴した。

見所

市名勝
即宗院庭園 - 関白藤原兼実が晩年に営んだ山荘「月輪殿」の跡。「都林泉名所図会」に庭園の姿が収められている。荒廃していたが昭和52年に復元された。
観光名所
山門 - 1613年の建立。
採薪亭跡 - 西郷隆盛と清水寺の月照が、新撰組や幕府の追っ手を逃れ、この茶亭に身を潜め、王政復古を志し幕府転覆の策をめぐらした。
薩摩藩士東征戦亡の碑 - 西郷隆盛は倒幕後、明治維新で戦死した霊を供養するため半年滞在して斎戒沐浴し、524霊の揮毫を行った。

行事

11/6~12/5
特別拝観 - この期間以外は拝観謝絶。

歴史

1196年
九条家の祖 藤原兼実が、この地に「月輪殿」と称する山荘を営んだ。
1387年
薩摩藩第6代 島津氏久が、島津氏出身の東福寺第54世 剛中玄柔を開山に迎え建立し薩摩藩の菩提寺とした。創建時は現在より南に位置していた。寺号は氏久の法名「齢岳立久即宗院」から。
1569年
火災で焼失。
1613年
第16代 島津義久により現在の地(月輪殿跡地)に再建された。
1799年
江戸時代のガイドブック「都林泉名勝図絵」に名園として紹介された。
幕末
西郷隆盛と清水寺の月照は、境内にあった茶亭「採薪亭」を拠点に倒幕を企てた。
1868年
鳥羽伏見の戦いで、薩摩軍は裏山に砲列を敷き、淀より進軍していた幕府軍を砲撃した。
明治2年
西郷隆盛は、鳥羽伏見の戦いで戦死した霊を供養するため半年滞在して斎戒沐浴し、524霊の揮毫を行った。
昭和52年
庭園が復元され、市の名勝に指定された。

撮影後記

 先日公開した龍吟庵の隣にある塔頭です。 龍吟庵と同じく、秋に特別公開され、普段は公開塔頭ではありません。
 名勝庭園が見所なのですが、境内の奥に「採薪亭跡」があり、この地に身を隠し、西郷隆盛と月照が討幕を企てたことを知りました。 安政の大獄で、西郷と月照は共に採薪亭を脱出して薩摩藩に逃れたのですが、月照がブラックリスト要人だったため藩では厄介者扱いされ、暗殺されかねなくなります。 月照は死を覚悟し、西郷と共に錦江湾に身を投じることになります。 西郷も入水をし一命を取り留めたことは、その後の歴史が示してくれますが、回復に一ヶ月ほどかかったそうです。 もしも三途の川を渡っていたならば、その後の歴史が変わっていたでしょうね。 また、篤姫が、徳川家へのお興しいれの際、この即宗院に立ち寄ったそうです。

更新履歴

2011年11月1日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年1月1日
一部の無料壁紙を会員限定の閲覧に制限しました。
2014年3月23日
登録カテゴリを洛南から移動しました。
2015年10月9日
登録カテゴリを山科・醍醐・今熊野から移動しました。

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