永観堂

もみじの永観堂

863年創建の浄土宗西山禅林寺派の総本山。寺号は禅林寺だが、永観堂という通称で知らている。古今和歌集でも詠まれるほど古くから紅葉の名所として名高く、「もみじの永観堂」として秋の行楽シーズンは大変賑わう。

永観堂

永観堂について

撮影後記

 下の概要・歴史のなかの藤原関雄が「おく山の 岩がき紅葉散りぬべし 照る日の光 見る時なくて」と古今集で詠んだ、京都屈指の人気紅葉スポットです。 境内には3,000本もの楓があるそうで、謳われたのは放生池の周辺に多くある楓ではなく、「岩垣もみじ」と呼ばれる御影堂の裏の急斜面にある高雄モミジのことです。 ただ、秋のシーズンは拝観料がちと高く、日時によっては入山待ちの長蛇の列ができるほど込み合うので、野口英世さんと交換ならば、早い時間に行くのがいいでしょう。 紅葉以外の時期は、非常に空いています。
 なお、永観堂の名前の由来は、特定の堂宇の名前ではなく、中興の祖といわれる永観(ようかん)住持からです。 当時、禅林寺の境内に薬王院という施療院を建て、今でいう社会福祉活動の先駆者だったそうです。 その薬食の一助にと梅林を育て、その梅に「悲田梅」と名づけ、今でもその子孫の梅の樹があるそうなので、今度はその季節に行こうかと思います。

概要・歴史

山号を聖衆来迎山とする、863年創建の浄土宗西山禅林寺派の総本山。 開基は真紹(しんじょう)、本尊は阿弥陀如来である。 寺号は禅林寺だが、永観堂という通称で知らている。 紅葉の名所として知られ、古くより「モミジの永観堂」と云われる。 また、京都に3箇所あった学問研究所の勧学院でもあり、古くから学問研究が盛んである。 853年、空海の高弟・真紹僧都が、実践道場の建立を願い、この地にあった文人・藤原関雄(ふじわらのせきお)が故居を寄進し、五智如来を本尊とする寺院を創建したのが由来。 863年、清和天皇より定額寺としての勅許と「禅林寺」の寺号を賜わって国家公認の真言宗寺院となった。 中興の祖とされる永観(ようかん)の頃から浄土教色を強めていった。 1072年、永観は本尊を阿弥陀如来にし、浄土念仏の道場とし人々に念仏を勧め、禅林寺は「永観堂(えいかんどう)」と称されるようになっていった。 鎌倉時代中期、静遍(じょうへん)は、浄土宗から法然上人に帰依し念仏門に入った。 法然の高弟・證空(しょうくう)(西山)も、静遍の後を嗣いで当寺に住持したといわれ、浄土宗西山派の開祖となった。 證空の弟子 浄音(じょうおん)が住持となり、真言宗から浄土宗西山禅林寺派に改宗し、揺るぎのない念仏道場となった。 しかし応仁の乱で全山被災。 その後、明応6年頃にかけて堂宇殿舎を逐次復興していった。

住所: 京都府 京都市左京区永観堂町48

更新履歴

2011年8月9日
初版をアップロードしました。
2011年11月7日
登録カテゴリを祇園・東山から洛東に移動しました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年1月1日
一部の無料壁紙を会員限定の閲覧に制限しました。

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