六波羅蜜寺

空也と源平盛衰の地

真言宗智山派の寺院で、六斎念仏の始祖 空也が951年に開創した。この地は、平家一門の拠点で、鎌倉時代には六波羅探題が置かれた源平盛衰の地でもある。空也像や平清盛像をはじめ、数多くの重文仏像が収蔵されている。

六波羅蜜寺

六波羅蜜寺について

基本情報

山号寺号
補陀洛山六波羅蜜寺 (ふだらくざんろくはらみつじ)
別称
六はらさん
宗派
真言宗智山派
創建
951年(天暦五年)
開山
空也
開基
空也
本尊
十一面観音
札所
西国三十三箇所 17番、洛陽三十三所観音霊場 15番
駐車場
無料駐車場あり
交通機関
清水道バス停徒歩7分、京阪清水五条駅徒歩7分
住所
京都府京都市東山区松原通大和大路東入2丁目轆轤町81-1
サイト
六波羅蜜寺

概要

951年創建の真言宗智山派の寺院で、踊り念仏で知られる市聖(いちのひじり)空也が道場とした西光寺を、空也の没後に高弟が、六原の地名と仏語の六波羅蜜から「六波羅蜜寺」に改名した。 空也は、疫病の蔓延する京都で、念仏を唱えながら病人に茶をふるまって救済した六斎念仏の始祖として名高い。 またこの地は、平安時代後期には平清盛ら平家一門の屋敷が営まれ、鎌倉時代には鎌倉幕府によって六波羅探題が置かれた源平盛衰の政治の中心地であった。 鎌倉時代再建の本堂には、 空也自刻といわれる秘仏本尊の国宝十一面観音立像が安置されている。 宝物館には、口から念仏唱和になぞらえた6体の阿弥陀仏を吐き出し、わらじ履きで洛中を歩く様子が表現されている空也上人立像や、傲慢な姿ではなく穏やかな風姿の平清盛像など、数多くの国の重要文化財に指定されている仏像が収蔵されている。

見所

国宝
木造十一面観音立像 - 空也自刻といわれる平安時代作の秘仏本尊。辰年に開帳される。
国重要文化財
本堂 - 1363年の再建。中央厨子に国宝十一面観音像を安置。
木造地蔵菩薩立像 - 平安時代の作で、定朝作といわれる。六波羅地蔵堂の本尊であった。「今昔物語集」にも登場する銘像。
木造薬師如来坐像 - 平安時代の作。天台様式がみられ、中信による中興時の像と考えられる。
木造四天王立像(持国天像と増長天像) - 持国天像は平安時代の作。空也の遺作である。
木造四天王立像(広目天像と多聞天像) - 平安時代の作。空也の遺作である。(京都国立博物館寄託)
木造空也上人立像 - 鎌倉時代の作。運慶の子である康勝の作。疫病が蔓延していた洛中を、わらじ履きで念仏を唱えながら歩く様子が表現されている。口から吐き出している6体の阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」の6文字。
木造僧形坐像(伝 平清盛像) - 鎌倉時代の作。平家物語に描かれている傲慢な姿ではなく、朱の中へ血を点じて写経した頃の経巻を手にした穏やかな風姿。
木造伝 運慶・湛慶坐像 - 鎌倉時代の作。かつて境内にあった運慶一族の菩提寺の地蔵十輪院本尊の脇持。
木造地蔵菩薩坐像 - 鎌倉時代の作で、運慶の真作といわれている。かつて境内にあった運慶一族の菩提寺の地蔵十輪院本尊。
木造弘法大師坐像 - 鎌倉時代の作。快慶の弟子である長快の作。
木造閻魔王坐像 - 鎌倉時代の作。
木造吉祥天立像 - 鎌倉時代の作。
国民俗文化財
庶民信仰資料 - 泥塔、皇服茶碗、版木、萬燈会関係用具など2,163点。
府文化財
再興歓進状 ・諸国大名寄進録 - 1363年の古文書。
観光名所
宝物館 - 国宝十一面観音像以外の重要文化財の仏像等が安置されている。
阿古屋塚 - 鎌倉時代の建立。浄瑠璃「阿古屋の琴責め」で、五条坂に住む白拍子の阿古屋の菩提を弔うための石塔。
平清盛供養塔 - 平清盛の菩提を弔うための石塔。

行事

正月三ヶ日
皇服茶(おうぶくちゃ) - 煎茶に結び昆布と小粒梅を入れて授与される。空也上人が、悪疫退散のため念仏を唱えながら、青竹を八葉の蓮片に割り、茶を立て、中に梅干と結昆布を入れ病者に授け、病魔を鎮めたのが由来。
1月17日
初観音
2月3日
節分会
8月8~10日
萬燈会 - 本堂で灯芯による大文字を点じ、七難即滅・七福即正の祈願が修ぜられ、火の要心の護符が授けられる。
9月11日
開山忌
12月13~31日
空也踊躍念仏 - 京都の六斎念仏のひとつ。国の重要無形民族文化財に指定されている。

歴史

951年
空也が、疫病平癒のため鴨川の東岸に一堂を建てて、十一面観音を本尊として「西光寺」と称したのが起源。
963年
空也が、600巻の金字の大般若経の写経を完成させ、鴨川の河原に600人の僧を集め供養し、この年に「西光寺」を建立したとも。
972年
空也が西光寺で没した。
977年
高弟の中信が、六原の地名と仏語の六波羅蜜から「六波羅蜜寺」に改名し、天台別院となった。
平安時代後期
平忠盛、平清盛、平重盛ら平家一門の屋敷が付近に営まれ、六波羅殿と呼ばれた。
1159年
平治の乱で、平清盛は幽閉されていた二条天皇を救出し六波羅殿に向かい入れた。源義朝は六波羅殿を攻めるが敗北した。
1183年
源氏の挙兵に対し、平家自ら六波羅第に火を放ち西海に逃れた。本堂のみが焼失を免れた。
1185年
源頼朝が、京都守護を六波羅に置いた。
鎌倉時代
承久の乱後、北条泰時が京都守護を改め六波羅探題が置かれた。六波羅蜜寺は地蔵堂と称され、地蔵菩薩立像が信仰を集めた。
1333年
後醍醐天皇方の攻撃により六波羅探題が滅亡した。
1363年
大修営が行われ、現在の本堂が再建された。
応仁の乱
兵火で、本堂以外が焼失。
1504~1521年
永正年間、秘仏開帳などにより勧進をすすめて再興した。
1586年
豊臣秀吉により本堂が補修され、現在の向拝が附設された。
1595年
天台別院より真言宗に改宗し、智積院の末寺となった。
1614年
徳川家康によって本堂が修造された。
江戸時代
塔頭10か寺を有す大寺院であった。
明治維新
廃仏毀釈により、寺域は大幅に狭められた。
昭和44年
開創1,000年を記念して解体修理が行われ、創建当時のものと思われる梵字、三鈷、独鈷模様の瓦、数千もの泥塔が出土した。

撮影後記

 今年の大河ドラマでお馴染みの平家の軍事拠点が置かれた六波羅にある寺院で、多数の藤原・鎌倉期の仏像を収蔵している名刹です。 江戸時代までは塔頭10カ寺を有していた大寺院だったそうですが、廃仏毀釈で上知され、現在の主だった伽藍は本堂と弁財天堂と宝物殿ぐらいの窮屈そうな伽藍です。 隣接している旧六原小学校も、もとは寺域でありました。
 その京都市立六原小学校も、2011年4月に付近の5つの小学校が合併し、統合により京都市立開睛小学校(小中一貫で東山開睛館)となり、明治2年開校の歴史ある小学校も141年の歴史に幕を下ろしました。 単なる都心部の児童数減少ではなく、この界隈って日本でも特殊な場所だと思います。 子供の姿は多く見ます、ただし制服を着た他地域の子供なのですから。

更新履歴

2012年12月19日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。

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