新日吉神宮

後白河天皇

豊国廟参道沿いに建つ、後白河天皇と日吉山王七神を祭神とする単立神社。後白河法皇が御所としていた法住寺殿の鎮守として、日吉大社から神々を勧請したのが由来。酒造、医薬、縁結びの神として信仰されている。

新日吉神宮

新日吉神宮について

基本情報

社名
新日吉神宮(いまひえじんぐう / しんひよしじんぐう)
創建
1160年(永暦元年)
主祭神
後白河天皇、日吉山王七神
旧社格
府社
例祭
10月16日
駐車場
無料駐車場あり - 楼門の外は月極駐車場。
交通機関
東山七条バス停徒歩5分
住所
京都府京都市東山区妙法院前側町451-1

概要

豊国廟の参道沿いに建つ、後白河天皇と日吉山王七神を主祭神とする単立神社。 後白河法皇が、御所としていた法住寺殿の鎮守社として、近江の日吉大社から神々を勧請したのが由来。 酒造、医薬、縁結びの神として信仰されている。 朝廷の崇敬厚く皇族の御幸は108度に及んだといわれ、多く天皇の遺物、宸筆を蔵す。 また、江戸後期の小沢蘆庵(おざわろあん)を筆頭に、近世文学の資料を蘆庵文庫の名で宮司家が保存していることは名高い。 5月に催される新日吉祭は、宮中行事を再興したもので、稚児武者の行列が氏子の住む地域を巡行する。 また、近江坂本の日吉猿楽から伝わった「翁」の曲を観阿弥が当社で上演したといわれ、「演能発祥の地」といわれる。

見所

市保存樹
スダジイ - 樹齢500年以上の御神木
観光名所
本殿 - 1835年に改築された。
樹下社(このもとのやしろ) - 豊臣秀吉を祭神とする境内社。
神猿の像 - 日吉大神の使いで守護神。檻に入っている。
蘆庵文庫 - 近世文学の資料が保存されている。

祭事

5月第2日曜日
神幸祭
10月16日
例大祭 - 妙法院門跡による神仏合体の祭で、神樂の奉納が行なわれる。
11月14日
お火焚祭 - 収穫祭で、湯立神楽が奉納される。

歴史

1160年
後白河上皇が、御所としていた法住寺殿(院の御所)の鎮守社として、近江の日吉大社から日吉山王七社の神々を勧請したのが由来。現在地より南の京都市立美術大学付近に建てられていた。
応仁の乱
兵火で焼失。
1615年
豊国廟が徳川家康によって破壊され、豊国廟の参道を塞ぐように豊国廟前に移された。
1835年
流造の本殿が改築された。
明治30年
現在の地に移転した。
昭和33年
後白河天皇を増祀。
昭和34年
社名を新日吉社から新日吉神宮と改めた。

撮影後記

 新日吉神宮で面白いのは、修学院の赤山禅院でも見かけましたが、日吉神社の神使である金網に入れられた神猿(まさる)。 鬼門除けの赤山禅院の猿とは意味合いが違うのかもしれませんが、「魔が去る」「何より勝る」という語呂合わせを兼ねています。 金網に入れられたのは、盗難防止も兼ねているのだとは思いますが、猿が逃げ出さないようにとのこと。 無論、本物のサルではないので、そこがツボなのですが。
 また、サル繋がりで、秀吉とも縁のある社のようです。 経緯は歴史を見ていただくとして、境内には秀吉を祭った樹下社(このもとのやしろ)という末社があります。 樹下社の「樹下」と、木下藤吉郎の「木下」が同じ音を持っていて、神官が密かに豊太閤を祭ったものといわれています。 江戸時代、家康によってタブー視されはしましたが、太閤を信仰する人々の拠り所となっていたのかもしれません。

更新履歴

2011年10月6日
初版をアップロードしました。
2011年11月7日
登録カテゴリを洛東から祇園・東山に移動しました。
2012年1月19日
ギャラリーに作品を5点追加しました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年1月1日
一部の無料壁紙を会員限定の閲覧に制限しました。

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