乙訓寺

牡丹寺

聖徳太子が創建したと伝わる真言宗豊山派の乙訓一の古刹。長岡京下筆頭の大寺院として栄え、平安時代には空海が別当に任じられた。現在の伽藍は桂昌院が再興したもの。また、ボタンの寺としても有名である。

乙訓寺

乙訓寺について

基本情報

山号寺号
大慈山乙訓寺(だいじざんおとくにでら)
別称
牡丹寺、今里の弘法さん
宗派
真言宗豊山派
創建
伝 飛鳥時代 - 奈良時代の創建と推定。
開山
伝 聖徳太子
開基
伝 推古天皇
本尊
合体大師像 - 弘法大師+八幡神。
札所
京都洛西観音霊場6番
駐車場
無料駐車場あり
交通機関
阪急長岡天神駅徒歩15分
住所
京都府長岡京市今里3丁目14-7
サイト
乙訓寺

概要

真言宗豊山派の古刹。 乙訓地域で現存するもっとも古い寺院で、推古天皇の勅願により、聖徳太子が創建したと伝わる。 長岡京下、京内七大寺の筆頭として栄え、造営時の藤原種継暗殺事件では、早良親王(桓武天皇の弟)が嫌疑をかけられ当寺に幽閉連座された。 平安時代には、空海が当寺の別当に任じられ、最澄も当寺を訪れ密教について法論を交わした。 現在の伽藍は、徳川綱吉の生母 桂昌院の援助により再興されたもの。 また、ボタンの寺としても有名で、4月下旬から5月上旬頃には、約2,000株の牡丹が咲き競う。

見所

国重要文化財
木造毘沙門天立像 - 平安時代作。「幽愁の毘沙門天」と称される。
市文化財
本堂 1695年の建立。
鐘楼 - 江戸時代中期の建立。
表門 - 元禄年間の建立。四脚門の南門。
裏門 - 高麗門の東門。
八幡社 - 1695年の創建。合体大師像の八幡大神を祀る。
十一面観世音菩薩立像
市天然記念物
モチノキ - 樹齢400年~500年。府下有数の巨樹。
観光名所
地蔵堂 - 日限地蔵尊を祀る。
毘沙門天堂 - 毘沙門天立像を祀る。
合体大師像 - 秘仏本尊。首は八幡大菩薩で胴体は空海。
講堂跡 - 長岡第三小学校校庭に埋没保存。
乙訓寺窯跡

行事

毎月21日
「今里の弘法さん」で知られる縁日。
4月
長岡京きりしま・ぼたん祭り - 本山である長谷寺からボタン2株を寄進されたのが始まりで、現在約2,000株の牡丹が咲き競う。
彼岸の中日
四国八十八ヵ所霊場お砂踏み - 本堂内に四国八十八ヶ所の各本尊の前に「お砂」が置かれ、その「お砂」を踏みながら参拝すると四国霊場巡拝と同じ功徳があるとされる。

歴史

518年
「日本書紀」によれば、継体天皇が河内で即位し、都を弟国(乙訓)に遷都し、乙訓寺は宮中跡として推定されている。
飛鳥時代
寺伝によれば、推古天皇の勅願により、聖徳太子が十一面観音を本尊とする伽藍を建立したのが由来と伝わる。
784年
長岡京遷都の際、京内七大寺の筆頭として大増築された。
785年
長岡京造営時に起きた藤原種継暗殺事件で、早良親王(桓武天皇の弟)が嫌疑をかけられ当寺に幽閉連座された。
811年
嵯峨天皇は、早良親王の怨霊を鎮めるため、空海を乙訓寺の別当に任命した。
812年
最澄が当寺を訪れ、それまで手紙の交換だけだった空海と初めて顔を合わせた。
897年
宇多天皇が法皇となると、乙訓寺を行宮(あんぐう)とされ、堂塔が整備され「法皇寺」と号された。
室町時代
内紛があり、足利義満は僧徒を追放し、南禅寺の伯英禅師に与え、臨済宗に改宗された。
応仁の乱
兵火で荒廃した。
1558~1570年
永禄年間、織田信長の兵火により衰微。
1695年
護持院隆光が、桂昌院(徳川綱吉の生母)の援助により再興され、真言宗に戻された。

撮影後記

 乙訓寺の乙訓とは、今の長岡京市や向日市一帯のエリアで、平安京以前の歴史の地です。 その乙訓を冠する寺ということで、京都でも屈指の古刹であろうことは想像に難くありません。 「乙訓」とは、昔この地方が「弟国」と呼ばれていたのが語源だとか。 ちなみに「兄国」は、葛野(今の洛西一帯)だと言われることから、洛西一帯の方が歴史が古そうです。
 撮影に関しては、ぼたん寺でありながら、ボタンの時期に訪問したことがありません。 この時期、全国の一本桜の撮影に追われ機会がありません。 今後、その合間を縫って、なんとか撮影したいものです。

更新履歴

2012年6月4日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。

乙訓寺紀行のコメント

コメントを書く

お名前 ※
ホームページ
コメント本文 ※
認証キー ※ (半角)
Captcha Code

フェイスブックを開始しました。上のタブからどうぞ。

おすすめギャラリー

鎌倉

鎌倉紀行

作品追加中
さくら

さくら紀行

作品追加中
美瑛・富良野