京都 四季の古都紀行
Kyoto: Ancient Capital for Thousand Years
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京都 四季の古都紀行
Kyoto: Ancient Capital for Thousand Years
サブタイトルを「豪華絢爛な桃山文化」としましたが、一向一揆の名残を伝えるような城郭風の構えに、立派なお堂がドーンと建って、一般の方はそんな雰囲気は感じられません。
また、堀川通を挟んで向かい側の寺内町は門前町として栄え、おぶつだん屋などが数多く建っていて、独特な雰囲気です。
いつも参拝者が多い西本願寺ですが、これを記載している年は、「親鸞聖人750回大遠忌法要」が執り行われるので、地方から団参の方も増え、例年以上に賑わうことでしょう。
ちょっと愚痴を零しますが、世界遺産に登録されている以上、団参の方ばかりでなく、門徒以外の一般の人民にも国宝の拝観制限を緩めて欲しいものです。
写真撮影禁止(ガイドによってはOkの場合もあるらしい)はしょうがないとしても、一部の方や滅多に見れないようでは、名ばかりの世界遺産なのではないでしょうか。
西本願寺と苔寺の西芳寺以外、他の世界遺産に登録された寺社は、積極的に文化財の公開をしていますし。
山号を龍谷山とする浄土真宗本願寺派の総本山である。 開基は親鸞(正確には覚信尼)、本尊は阿弥陀如来。 ユネスコ世界文化遺産に登録されている。 1262年、浄土真宗の開祖・親鸞が90歳で入滅。 1272年、親鸞の末娘・覚信尼が御影堂と呼ぶ大谷廟堂を建て、親鸞の遺骨を安置したのが起源である。 その後、血脈相続を築き三世覚如のとき本願寺(大谷本願寺)と称す。 これに対して、親鸞の法脈は佛光寺や専修寺などを起こす。 室町時代になると中興の祖と呼ばれる八世蓮如が分かり易い言葉で民衆に布教したため、爆発的に浸透し一向宗と称されるようになる。 その結果、比叡山の反目を買い、大谷本願寺が比叡山の僧兵によって破壊された。 その後、蓮如は近江、北陸で布教し勢力を回復し、京都の山科に本願寺を再興(山科本願寺)。 1532年、日蓮宗徒と六角定頼の焼討で炎上し、大阪の石山(石山本願寺)に移り、ここで一大勢力になる。 11世顕如のとき、織田信長と対立し石山合戦となり石山本願寺はすべて焼き払われ、和泉の貝塚にある石山本願寺の末寺であった寺に移る(貝塚本願寺)。 石山合戦の終結をめぐり、顕如と長男・教如の意見が対立。 1585年、豊臣秀吉から寺地の寄進を受けて、大坂の天満に移る(天満本願寺)。 1591年、豊臣秀吉から再び寺地寄進を受け、現在の場所(西本願寺)に移転し御影堂と阿弥陀堂とが完成する。 1602年、本願寺は東西に分裂する。(本願寺分裂の歴史は東本願寺のページに記載。) 江戸時代初期、大谷廟堂は、現在の大谷本廟に移る。 1639年、学寮(現在の龍谷大学)が創立される。 幕末、新撰組の本拠地ともなる。 建造物として、書院(対面所と白書院)、北能舞台、黒書院及び伝廊2棟、飛雲閣 、唐門が国宝に指定されている。
京住所: 京都市下京区 堀川通花屋町下ル
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