金戒光明寺

くろ谷

黒谷にある「紫雲山」と号する浄土宗の大本山で、「くろ谷」と通称される。1175年、法然上人が比叡山の黒谷を下りて、初めて草庵を結び念仏道場とした地とされる。山内は18ヶ寺の塔頭が甍を並べる大伽藍である。

金戒光明寺

金戒光明寺について

基本情報

山号寺号
紫雲山金戒光明寺(しうんざんこんかいこうみょうじ)
別称
黒谷、くろ谷さん、白河禅房
宗派
浄土宗
寺格
大本山
創建
1175年(承安五年)
開山
法然
開基
法然
本尊
阿弥陀如来
札所
法然上人二十五霊跡 第24番、洛陽三十三所観音霊場 第6番
駐車場
有料駐車場あり
交通機関
岡崎道バス停徒歩5分
住所
京都府京都市左京区黒谷町121
サイト
金戒光明寺

概要

黒谷にある「紫雲山」と号する浄土宗の大本山で、「くろ谷」と通称される。 承安5年(1175年)、法然上人が比叡山黒谷を下り、石に腰をおろし念仏を唱えると紫雲が棚引き、此の地に初めて庵を結んだというのが縁起となっている。 当地は法然の師 叡空が住した比叡山黒谷の所領「白河禅房」で、叡空が法然に白河禅房を与え、念仏道場としたのが起源である。 鎌倉時代後期、第5世 恵顗のときに堂宇が整備され、法然の縁起から「紫雲山 光明寺」と称し、第8世運空が後光厳天皇から「金戒」の文字を下賜され、「金戒光明寺」とした。 江戸時代初期に城郭構造に改修され、幕末には京都守護職 松平容保率いる会津藩の本陣となった。 山内には重文の文殊塔や豊臣秀頼により再建された阿弥陀堂などが建ち、18ヶ寺の塔頭が甍を並べている。

見所

国重要文化財
文殊塔(三重塔) - 1633年、徳川秀忠の菩提を弔うため建立された。近年まで運慶作と伝わる文殊菩薩を安置していた。
木造千手観音立像 - 飛鳥時代、吉備真備が中国から持ち帰ったものと伝わり、「吉備観音」と称せられる。(京都国立博物館寄託)
絹本著色山越阿弥陀図 三曲一双 - 鎌倉時代の作。(京都国立博物館寄託)
絹本著色地獄極楽図 二曲一双 - 14世紀前半の作。(京都国立博物館寄託)
府文化財
阿弥陀堂 - 1605年、豊臣秀頼により再建。恵心最後の作という本尊阿弥陀如来を安置。 胎内に一代彫刻の使用器具が納められ「ノミ納め如来」と称される。
鐘楼 - 1623年の棟上。
山門 - 1860年の再建。後小松天皇宸翰「浄土真宗最初門」の勅額がある。
絹本著色法然上人像 - 鎌倉時代の作。
金戒光明寺再興歓進状 1巻 - 永正九年(1512年)の古文書。
吉田寺再興歓進状 1巻 - 大永三年(1523年)の古文書。
府登録文化財
経堂 附寄進札 1枚 - 1689年の寄進札。
市文化財
木造文殊菩薩半跏像 - 三重塔に安置されていた獅子(後補)に騎乗する文殊菩薩。
木造優てん王立像 - 三重塔に安置されていた文殊菩薩の眷属。
木造最勝老人立像 - 三重塔に安置されていた文殊菩薩の眷属。
木造仏陀波利三蔵立像 - 三重塔に安置されていた文殊菩薩の眷属。
観光名所
御影堂(大殿)- 昭和9年の火災で焼失後、昭和19年の再建。法然75歳の御影を安置。
大方丈 - 昭和9年の火災で焼失後、昭和19年の再建。
紫雲の庭 - 平成18年に作庭された大方丈東側の枯山水庭園。法然上人の800回忌を記念して、上人の半生を3つのエリアで構成している。
熊谷直実 鎧掛けの松 - 熊谷直実が出家の際に、鎧を洗いそれを掛けたといわれる。2代目は平成25年に枯れ、翌年に3代目が植えられた。
墓地 - 会津藩士352柱、熊谷直実、八橋検校(江戸時代の音楽家)、山崎闇斎(江戸前期の儒者)、山中鹿之助幸盛(尼子十勇士の筆頭)、宮城頼久(戦国武将)、春日局・崇源院(江)供養塔など。
塔頭 - 蓮池院(熊谷堂)、松樹院、西翁院、永運院、金光院、常光院、浄源院、勢至院、光安寺、善教院、長安院、瑞泉院、西住院、超覚院、上雲院、西雲院、龍光院、栄摂院、顕岑院。

行事

4月23~24日
御忌会 - 法然上人真筆御遺訓の一枚起請文が一般内拝できる。

歴史

平安時代
当地は法然の師 叡空が住した比叡山黒谷の所領で、「白河禅房」と称されていた。
1175年
叡空が法然に白河禅房を与え、念仏道場としたと伝わる。
鎌倉時代後期
第5世 恵顗のときに堂宇が整備され、法然の縁起から「紫雲山 光明寺」と称した。
南北朝時代
第8世運空が後光厳天皇から「金戒」の文字を下賜され、「金戒光明寺」と称した。
1428年
後小松天皇より「浄土真宗最初門」の勅願を賜わった。
応仁の乱
兵火で焼失した。
1605年
現在の阿弥陀堂が豊臣秀頼により再建された。
1633年
現在の文殊塔が創建された。
1776年
御影堂、大方丈、庫裏を焼失。
1789~1801年
寛永年間、再興された。
1862年
京都守護職 松平容保率いる会津藩の本陣となった。
昭和9年
御影堂、大方丈が焼失した。
昭和19年
御影堂、大方丈が再建された。

撮影後記

 平安神宮の北東、真如堂の南側にある「くろ谷」。 京都の浄土宗寺院では知恩院と双璧を成す大伽藍が広がっていますが、実は徳川幕府によって、危急の際に軍隊が配置できるようにと、両寺をそれとわからないように城構えとしたのだそう。 小高い丘で天然の要塞になっている黒谷からは、淀のあたりまで見渡せます。 そして数多くの塔頭(宿坊)があり、千名の軍隊も駐屯できたといわれます。 そういったことから、幕末に京都守護職が本陣として選んだと考えられています。

更新履歴

2015年2月8日
初版をアップロードしました。

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