本隆寺

法華宗真門流総本山

西陣にある法華宗真門流の総本山。1488年、法華経の解釈で妙顕寺より離れ、日真によって創建された。本堂と祖師堂が、2度の大火から鬼子母神の霊験によって焼失を免れたことから、「焼けずの寺」とも称された。

本隆寺

本隆寺について

基本情報

山号寺号
慧光無量山本妙興隆寺(えこうむりょうさんほんみょうこうりゅうじ)
別称
本隆寺(ほんりゅうじ)、不焼寺(やけずのてら)
宗派
法華宗真門流
寺格
総本山
創建
1488年(長享二年)
開山
日真(にちしん)
本尊
三宝尊
札所
洛中法華21ヶ寺
駐車場
無料駐車場あり
交通機関
今出川大宮バス停徒歩5分
住所
京都府京都市上京区智恵光院五辻上ル紋屋町330
サイト
法華宗真門流

概要

西陣にある法華宗真門流の総本山。 正式な寺号は「本妙興隆寺」だが、略して「本隆寺」と通称される。 1488年、法華経の解釈で妙顕寺より分かれ、日真によって四条大宮に創建されたのが起源。 天文法華の乱で焼失し、その後、西陣に再建された。 本堂と祖師堂は、「西陣焼け」「天明の大火」の大火から鬼子母神の霊験によって焼失を免れたとして、「焼けずの寺」とも称された。 この2棟は、京都府指定有形文化財に登録されている。

見所

国重要文化財
法花玄論 10巻 - 平安時代の作。(京都国立博物館寄託)
法華経(開結共) - 平安時代の作。金銀箔散料紙。(京都国立博物館寄託)
府文化財
本堂 - 1657年の再建。2度の大火で消失を免れ、日蓮宗京都16本山の中で最も古い本堂。
祖師堂 - 1657年の再建。天明の大火で消失を免れた。
観光名所
千代の井 - 西陣五井一の名水とされる。本堂を大火から守ったともいわれる。
夜泣止松 - 第五世 日諦の故事より、松葉を枕の下に敷くと、赤子の夜泣きが止むといわれる。現在の松は三代目。
塔頭 - 慶成院、宣妙院、本法院、玉峰院、本城院、是好院、玉樹院、正寿院。

行事

2月3日
節分祈祷会
4月中旬
法華千部大法会 - 期間中、開祖御命日会。
4月28日
立教開宗会
6月16日
お千度参
8月1日~3日
暁天講座
8月16日
盂蘭盆施餓鬼会
8月25日
霊宝虫払い会
10月12~13日
御会式
12月25日
すす払い
12月31日
歳末会

歴史

1467年
中山親通の子 日真は、妙本寺(現在の妙顕寺)の日具に師事した。
1488年
日真は、法華経の解釈について論争があり、妙本寺より分かれ、四条大宮に「本妙興隆寺」が創建された。
1536年
第四世 日映のとき、天文法華の乱で焼失し、堺に避難した。
1542年
帰洛を許され、西陣(杉若町付近)に再建された。
1584年
豊臣秀吉の都市改造政策により、現在の地に移転した。
1654年
京都御所の炎上により類焼。
1657年
名匠 坂上作左衛門により再建された。
1730年
「西陣焼け」により、西陣が焼け野原となったが、一部が焼失したにとどまった。
1788年
天明の大火により、洛中が焼け野原となったが、本堂・祖師堂・宝庫は消失を免れた。
1792年
再興した。

撮影後記

 西陣中央小学校の北西、雨宝院の南隣に建つ寺院です。 大伽藍で、本堂と祖師堂を取り巻くように八支院もの塔頭が立ち並んでいます。 境内の墓地には、江戸時代初期の医者であった黒川道祐をはじめ黒川家の墓石が窮屈そうに集まっています。 広島藩浅野家の御典医として勤め、辞した後、京都に住して、本草家の貝原益軒と交友したそうです。 彼の著書「雍州府志」は、山城国を中国の雍州に準え、地理風土から寺社仏閣、さらに特産物なども事細かに著した全10巻の書物。 今でいえば、京都のガイド本の先駆けともいえるのかもしれません。

更新履歴

2012年8月24日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年1月1日
一部の無料壁紙を会員限定の閲覧に制限しました。

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