鎌倉 四季の花紀行
Kamakura: Ancient Home of the Samurai Clans
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鎌倉 四季の花紀行
Kamakura: Ancient Home of the Samurai Clans
大船にある臨済宗建長寺派の寺院。 1237年、鎌倉幕府3代執権 北条泰時が、妻の母の供養のために退耕行勇を導師に招き「粟船御堂」を建てたのが起源。 大船の地名は、この「粟船」に由来するといわれる。 後に泰時の法名「常楽寺殿」から「常楽寺」と改められた。 宋僧の蘭渓道隆が、建長寺に移るまでの5年間を住持とし、多くの雲水が参禅し、建長寺の根本道場として保護された。 宝治二年(1248年)の刻銘がある梵鐘は、鎌倉最古の鐘として国重文。 また、多くの仏像が文化財に指定されている。 仏殿裏には、北条泰時や蘭渓道隆に参禅した南浦紹明の墓がある。
スペースの都合上、上で書けなかった逸話を。
まず無熱池の伝説。
蘭渓道隆の給仕役であった乙護童子は、参禅した江ノ島弁財天の悪戯によって美しい娘に変身させられた。
その後、禅師が童子を寵愛しているという噂が村に広まった。
童子は、禅師の潔白を示そうと、白い大蛇に化け、仏殿前の泰時お手植えイチョウに七回半巻きつき、尾で池の底を叩いたというお話。
次に木曾塚の伝説。
木曾義仲の長男 義高は、表向きは頼朝の娘 大姫の許嫁として鎌倉にいたが、実際は人質だった。
義仲が討たれたことにより、人質として鎌倉にいた義高の立場は悪化し、頼朝は義高を討とうとした、
大姫は、父頼朝に思いとどまるよう懇願したが聞き入れられず、母政子は気持ちを察し、女房姿にさせ逃がした。
しかし、頼朝は激怒し、義高は埼玉の入間川河原で討たれてしまった。
義高の首は木曽塚で首実験され葬られた。
大姫は嘆き悲しみ病床に伏し、政子は義高を討った郎党を晒し首にさせたという。
その後、木曽塚から裏山に移された。
以上の経緯で、粟船山に義孝と姫宮の墓と伝わるものがあります。
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