常楽寺

北条泰時

大船にある臨済宗建長寺派の禅刹。1237年、3代執権 北条泰時が、退耕行勇を導師に招き創建した。宋僧の蘭渓道隆が、建長寺に移るまで住持とし、多くの雲水が参禅した。仏殿裏には、北条泰時や南浦紹明の墓がある。

常楽寺

常楽寺について

基本情報

山号寺号
粟船山常楽寺(ぞくせんざんじょうらくじ)
別称
粟船御堂(あわふねみどう)
宗派
臨済宗建長寺派
創建
1237年(嘉禎三年)
開山
退耕行勇(たいこうぎょうゆう)
開基
北条泰時
本尊
阿弥陀三尊
駐車場
無料駐車場あり
交通機関
常楽寺バス停徒歩2分
住所
神奈川県鎌倉市大船5丁目8-29

概要

大船にある臨済宗建長寺派の寺院。 1237年、鎌倉幕府3代執権 北条泰時が、妻の母の供養のために退耕行勇を導師に招き「粟船御堂」を建てたのが起源。 大船の地名は、この「粟船」に由来するといわれる。 後に泰時の法名「常楽寺殿」から「常楽寺」と改められた。 宋僧の蘭渓道隆が、建長寺に移るまでの5年間を住持とし、多くの雲水が参禅し、建長寺の根本道場として保護された。 宝治二年(1248年)の刻銘がある梵鐘は、鎌倉最古の鐘として国重文。 また、多くの仏像が文化財に指定されている。 仏殿裏には、北条泰時や蘭渓道隆に参禅した南浦紹明の墓がある。

見所

国重要文化財
梵鐘 - 宝治二年(1248年)の刻銘がある鎌倉最古の鐘。建長寺、円覚寺の鐘(共に国宝)とともに「鎌倉三名鐘」のひとつ。(鎌倉国宝館寄託)
県文化財
仏殿 - 1691年の建立。本尊の阿弥陀如来像、脇侍の観音菩薩像と勢至菩薩像の三尊像、右に室町時代作といわれる蘭渓道隆像が安置されている。天井には狩野雪信筆の雲龍図が描かれている。
木造文殊菩薩坐像 - 鎌倉時代の作。文殊堂に安置され、毎年1月25日の文殊祭に開帳される。
市文化財
山門 - 江戸時代初期建立の茅葺きの四脚門。扁額「粟船山」は、1688年に黄檗宗の木庵性トウの筆。
木造阿弥陀如来及び両脇侍像 - 仏殿本尊。仁治三年(1242年)の銘があり、北条泰時が極楽往生を祈願して造立したものと考えられている。
木造釈迦如来坐像 - 南北朝時代の作。本堂に安置。
観光名所
本堂 - 釈迦如来像や乙護童子像を安置。
文殊堂 - 江戸前期の建築。英勝寺から明治14年に移築された。蘭渓道隆ゆかりの秘仏文殊菩薩坐像が安置されている。
北条泰時墓 - 仏殿裏にある三基の石塔で、右が泰時、中央が中興の竜淵、右が南浦紹明(大応国師)の墓。大正15年に裏山から移された。
無熱池 - 「色天無熱池」と称する仏殿脇の池。蘭渓道隆と童子の逸話が残り、「おたたきの池」とも呼ばれる。
木曾義高の墓 - 裏の粟船山山頂に木曾義仲の長男である清水冠者義高の墓と伝えられる塚がある。もと大船中学校東側の栄町公園あたりにあった「木曾塚」が、1680年に現在地に移された。
姫宮の墓 - 裏の粟船山中腹に北条泰時の娘で三浦泰村の妻であった姫宮の墓がある。源頼朝の娘の大姫の墓とも。

行事

1月25日
文殊祭 - 文殊堂秘仏本尊の木造文殊菩薩坐像が開帳される。

歴史

1184年
清水冠者 木曾義高(源義高)が、入間川の河原で討たれ、寺近くの「木曾塚」に葬られたと伝わる。
1237年
鎌倉幕府3代執権 北条泰時が、妻の母の供養のために退耕行勇を導師に招き「粟船御堂」を建てた。
1242年
北条泰時が死去し、粟船御堂に葬られた。泰時の法名「常楽寺殿」から「常楽寺」と改められた。
1246年
5代執権 北条時頼は宋僧の蘭渓道隆を寿福寺から当寺に住持として招き、多くの雲水が参禅した。
1253年
蘭渓道隆が建長寺に移った。
中世
建長寺の根本道場として建長寺から保護された。
1309年
建長寺の蘭渓道隆に参禅した南浦紹明が死去し当寺に葬られた。
1680年
木曾義高の墓が、木曾塚から裏山に移された。
1691年
仏殿が建立された。
江戸時代後期
竜淵によって中興された。
大正12年
関東大震災で仏殿と文殊堂以外が倒壊した。

撮影後記

 スペースの都合上、上で書けなかった逸話を。 まず無熱池の伝説。 蘭渓道隆の給仕役であった乙護童子は、参禅した江ノ島弁財天の悪戯によって美しい娘に変身させられた。 その後、禅師が童子を寵愛しているという噂が村に広まった。 童子は、禅師の潔白を示そうと、白い大蛇に化け、仏殿前の泰時お手植えイチョウに七回半巻きつき、尾で池の底を叩いたというお話。
 次に木曾塚の伝説。 木曾義仲の長男 義高は、表向きは頼朝の娘 大姫の許嫁として鎌倉にいたが、実際は人質だった。 義仲が討たれたことにより、人質として鎌倉にいた義高の立場は悪化し、頼朝は義高を討とうとした、 大姫は、父頼朝に思いとどまるよう懇願したが聞き入れられず、母政子は気持ちを察し、女房姿にさせ逃がした。 しかし、頼朝は激怒し、義高は埼玉の入間川河原で討たれてしまった。 義高の首は木曽塚で首実験され葬られた。 大姫は嘆き悲しみ病床に伏し、政子は義高を討った郎党を晒し首にさせたという。 その後、木曽塚から裏山に移された。 以上の経緯で、粟船山に義孝と姫宮の墓と伝わるものがあります。

更新履歴

2012年8月11日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年1月1日
一部の無料壁紙を会員限定の閲覧に制限しました。

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