玉縄

玉縄の名を受け継ぐ

玉縄城が築かれた玉縄地域(城廻・植木・関谷・岡本)の地名を受け継ぎ、昭和44年に岡本地区から分離した玉縄地区。縄文土器の破片や飾り玉が出土していることから、「玉縄」と名付けられたとも考えられている。

玉縄

玉縄について

基本情報

名称
玉縄(たまなわ)
交通機関
大船駅から徒歩
所在地
神奈川県鎌倉市玉縄

概要

玉縄地域(城廻・植木・関谷・岡本)の地名を受け継ぎ、昭和44年に岡本地区から分離した玉縄地区。 玉縄地域には、戦国時代に北条早雲により玉縄城が築かれ、後北条氏の東相模最大の拠点となり、小田原城と共に相模国の難攻不落の堅城として知られている。 豊臣秀吉の小田原征伐で落城したが、徳川政権下においても玉縄城は重要視され、本多正信の居城となり玉縄藩が置かれた。 戦後の宅地造営によって風景は様変わりし、現在その遺構は失われてしまった。 地名の由来は、縄文時代には既にこの地域に人が住んでおり、土器の破片や美しい飾り玉が出土していることから、「玉縄」と名付けられたとも考えられている。

見所

観光名所
玉泉寺 - 真言宗大覚寺派の寺院。江戸時代初期に亡くなった玉縄城の家臣だった小林若狭が開いたといわれる。本堂に祀られている不動明王像は、「胎内不動」と呼ばれ、胎内にも不動明王像が納められている。
岡本神社 - 永正九年(1512年)、侵攻してきた玉縄城主らによって解体された岡本村の鎮守が、平成十年に下社が復元された。奥社のあった場所は300メートル上方の山頂に鎮座し、「お伊勢山神明神社」と称されていた。
谷戸池 - もとは谷戸(小字)地域の農業用の溜池であった。池の周囲には桜が植えられている。終戦の年に平和を願い近所の人たちによって桜を植樹したのがはじまり。
子育地蔵 - 谷戸池のすぐ近くにある地蔵堂。1862年、岡本村の長老たちが、幼くして亡くなる子が無くなるようにと仏師に依頼し作った地蔵を安置。

歴史

平安時代
玉縄付近を中心として玉縄荘が広がっていた。
1513年
北条早雲により玉縄城が築かれた。
1526年
鎌倉へ攻め入った里見義豊の軍勢を撃退した。
1561年
相模国へ攻め入った上杉謙信の軍勢を撃退した。
1590年
豊臣秀吉による小田原征伐で、徳川家康の攻撃で開城した。
江戸時代初期
玉泉寺が創建された。
江戸時代前期
玉縄藩が置かれ、本多正信や松平家の所領となった。
1703年
松平家が上総国大多喜藩に転封となり、玉縄藩は廃された。
明治22年
城廻村、植木村、関谷村、岡本村が合併して玉縄村となった。
昭和8年
玉縄村が大船町に編入された。
昭和23年
大船町が鎌倉市へ編入された。
昭和44年
岡本地区から分離して玉縄に住居表示変更された。

撮影後記

 谷戸池を撮影した日は雨上がりの宵でした。 しばらく池の周囲を散策していると、地元有志の方がライトアップの電気を点けてくれました。 すると瞬時にリーダーらしき方が、漏電するかもしれないから消すようにと怒り口調で指示してました。 「あんたたちのための池じゃない」とか聞こえたので、どうやら池のほとりでブルーシートを敷いてお花見宴会している人たちがいて、それが気に入らないらしく、虫の居所が悪かったみたいでした。 これだけのために横浜から来たのに、わずか10秒でライトアップが終わってしまい、トホホな一日でした。 もう少し暗くなってスローシャッターで花筏撮りたかったよ。

更新履歴

2012年6月29日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年1月1日
一部の無料壁紙を会員限定の閲覧に制限しました。
2014年10月24日
「谷戸池紀行」から「玉縄紀行」に変更しました。

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