大巧寺

おんめさま

小町にある安産祈願で知られる日蓮宗系の単立寺院。室町時代、第五世の日棟が、難産で死んだ女の霊魂を鎮めるために産女霊神として祀り、以来、「おんめさま」として親しまれ安産の神として信仰されている。

大巧寺

大巧寺について

基本情報

山号寺号
長慶山大巧寺(ちょうけいざんだいぎょうじ)
別称
おんめさま
宗派
日蓮宗系単立
創建
1320年(元応2年) - 十二所から移転時。
開山
日澄(にっちょう)
本尊
産女霊神
駐車場
無料駐車場あり
交通機関
鎌倉駅東口徒歩3分
住所
神奈川県鎌倉市小町1丁目9-28
サイト
おんめさま 大巧寺

概要

小町にある安産祈願で知られる日蓮宗系単立寺院。 もとは十二所にあり真言宗「大行寺」と号していた。 頼朝の祈願所として、この寺で練った作戦で大勝したため「大巧寺」と改めたと伝わる。 1320年、日蓮に帰依した日澄が、現在地に移し日蓮宗に改宗した。 第五世の日棟が、難産で死んだ大倉に住んでいた女の霊魂を鎮めるため産女霊神として祭り、以来、「おんめさま」と呼ばれ安産の神として信仰されている。

見所

観光名所
本堂 - 関東大震災で倒壊し、昭和6年の再建。産女霊神や日蓮上人像が祀ってある。
山門 - 昭和57年の再建。
庫裏 - 安産腹帯守授与所ともなっている。
産女霊神の塔 - 第五世の日棟が、難産で死んだ大倉に住んでいた女の霊魂を鎮めるため産女霊神として祭り、以来、「おんめさま」と呼ばれ安産の神として信仰されている。
源頼朝戦評定所の碑 - 頼朝が戦いのとき、この寺(十二所の旧寺)で練った作戦で大勝したため「大巧寺」と改めたという。

歴史

鎌倉時代
もとは十二所の梶原屋敷にあり真言宗「大行寺」と号していた。頼朝の祈願所として、この寺で練った作戦で大勝したため「大巧寺」と改めたと伝わる。
1320年
日蓮に帰依した日澄が、現在地に移し日蓮宗に改宗した。
1536年
第五世の日棟が、難産で死んだ大倉に住んでいた女の霊魂を鎮めるため産女霊神として祀った。
1866年
本堂と庫裏が焼失。
明治3年
本堂と庫裡が再建された。
大正12年
関東大震災で本堂が倒壊した。
昭和6年
本堂が再建された。
昭和26年
単立寺院として独立した。

撮影後記

 鎌倉駅のすぐ近く、境内が小町大路から若宮大路へと通り抜けられるので、朝や夕方などサラリーマンや学生さんが忙しなく通り抜けていきます。 参道の両側には、四季折々の草花が植えられ、さながら駅前ミニ植物園といったところでしょうか。
 おんめさまの説法をもう少し詳しく説明するとこうです。 第五世の日棟がある日、妙本寺の祖師堂に参るため滑川を渡ろうとすると、川原に女の姿が見えました。 その女は、髪は乱れ着物は血だらけで、やせ細った赤ん坊を抱えて泣いていたのです。 どうしたのかと尋ねると、「私は大倉に住む秋山勘解由の妻です。先日、難産で死んだのです。毎日この川を渡ろうとするのですが、川の水が汚い血になって渡れません。そのうえ子どもが乳房に吸いついて泣くので苦しくてたまりません。どうか助けてください。」と答えたのでした。 日棟が仏の教えを説き聞かせると、女の姿が見えなくなりました。 それから数日後、再び女が日棟の前に現れました。 「おかげさまで苦しみがなくなりました。この包みには生前に蓄えたお金が入っています。これで塔を立て、お産に苦しむ人を救ってください。」と云ってまた姿が見えなくなりました。 そこで、大倉に住む女の夫 秋山勘解由に確かめたところ、女が貯めていた包に間違いないということでした。 さっそく日棟は、宝塔を建て、この女を産女霊神として祀ったのです。

更新履歴

2012年6月25日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年1月1日
一部の無料壁紙を会員限定の閲覧に制限しました。
2014年11月17日
ギャラリーに作品を2点追加しました。

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