薬王寺

徳川家ゆかりの寺

1293年創建の日蓮宗寺院。もとは真言宗に属していたが、日像が時の住職と論難し改修した。江戸時代、徳川家との関係が深く七堂伽藍の大寺院であったが、廃仏毀釈の流れで荒廃し、大正以降に復興された。

薬王寺

薬王寺について

基本情報

山号寺号
大乗山薬王寺(だいじょうざんやくおうじ)
宗派
日蓮宗
創建
1293年(永仁元年)
開山
日像
中興
日達
本尊
久遠の本師釈迦牟尼仏
駐車場
無料駐車場あり
交通機関
鎌倉駅徒歩13分、北鎌倉駅徒歩15分
住所
神奈川県鎌倉市扇ガ谷3丁目5-1
サイト
薬王寺

概要

1293年創建の日蓮宗寺院。 もとは夜光寺と号して真言宗に属していたと伝わるが、日像(日蓮の高弟で京都布教の祖)が時の住職と論難し、日蓮宗に改修した。 江戸寛永年間、徳川家光の弟である徳川忠長が高崎で自刃し、妻の松考院が夫の菩提を弔うために広大な土地と資金を寄進し、三千坪の境内に七堂伽藍が建てられた。 江戸時代、三葉葵の寺紋が使われ徳川家との関係が深く、庶民の埋葬は許されない寺であったため、明治時代以降、廃仏毀釈の流れで荒廃し、大正以降に復興された。 本堂中央に安置されている日蓮上人像は、宗門三指の大きさを誇り口を開き説法をしている珍しい坐像。 上半身が裸像で、法衣袈裟を纏い、年二回の更衣式が行われる。

見所

観光名所
本堂 - 1727年再建、2003年改修。宗門三指の大きさを誇り口を開き説法をしている珍しい日蓮上人坐像を安置。上半身裸像で、法衣袈裟を纏い年二回の更衣式が行われる。ほかに釈迦如来金像、大黒天像、日像上人像、熱田大明神像(頭部が当山より出土)、馬頭観音像、釈尊涅槃図など寺宝が豊富。
釈迦堂 - 650遠忌で昭和6年再建。以前は下関の海中から出現した唐代の釈迦如来金像を祀っていた。現在は本堂に安置。
鐘楼 - 700遠忌で昭和56年再建。
徳川忠長供養塔 - 徳川家光の弟。高崎で自刃。妻の松孝院(織田信長の孫)が建立。
寶筺印塔 - 墓地に並ぶ二基の巨大宝篋印塔。松山城主 蒲生忠知(会津若松の蒲生氏郷の孫)の妻娘の墓。

行事

毎月第4日曜
信行会
節分前後
星祭祈祷
5月13日
開山会
6月1日
更衣式 - 日蓮上人像が纏っている法衣袈裟を着せ替える。
8月8日
施餓鬼会
10月1日
更衣式 - 日蓮上人像が纏っている法衣袈裟を着せ替える。
11月3日
御会式
12月31日
除夜の鐘

歴史

鎌倉時代
真言宗に属し、梅嶺山夜光寺と号していたと伝わる。
1293年
日像が住職と論難し日蓮宗に改宗し、梅嶺寺、もしくは梅立寺と号していたとも伝わる。
江戸時代初期
日達によって薬王寺と改められ再興された。
1624~1645年
寛永年間、徳川忠長が高崎で自刃し、妻の松考院が弔うために広大な土地と資金を寄進し、三千坪の境内に七堂伽藍が建てられた。
1720年
火災で伽藍が焼失。
明治時代
廃仏毀釈の流れで荒廃し無住となった。
大正3年
本覚寺執事 日振が、復興に着手。
昭和12年
池上本門寺の日照が入寺し、復興を継続し現在の山容を整えた。

撮影後記

 扇ガ谷の岩船地蔵から亀ヶ谷坂へ向かう途中にあるお寺さんです。 和尚さんは、震災の被災地に炊き出し行脚や海回向をされたり、バンドのドラマーもしているそうです。
 釈迦堂の裏に大きなやぐらがあります。 このやぐらに置いた石像はどんな石のものでも溶けていくのだそうです。 この辺りは海底が隆起したところで塩分の影響で風化が早いのではないかということです。

更新履歴

2012年5月30日
初版をアップロードしました。
2013年12月31日
携帯電話・スマートフォン専用壁紙を休止しました。
2014年1月1日
一部の無料壁紙を会員限定の閲覧に制限しました。
2014年11月20日
ギャラリーに作品を1点追加しました。

薬王寺紀行のコメント

コメント欄

はじめまして。鎌倉薬王寺の住職でございます。
こちらのサイトで、素敵なお写真を載せて頂き、感謝申し上げます。
一つお尋ねさせてくださいませ。こちらのお写真を、当寺のHPに載せさせて頂く事は可能でしょうか。
もしもよろしければ大変ありがたいのですが。
突然に申し訳ありません。
薬王寺

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